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  • 「第五章 「観光楽土」としての満洲国」(高媛『観光の政治学 : 戦前・戦後における日本人の「満洲」観光 』東京大学、2005、博士論文、159-188頁)

    • 本章の趣旨
      • 満州国時代の観光に関する、満洲国に向けるゲストの熱いまなざしや、満州国時代の代理ホストシステムについて考察している。
        • 文化装置のコラボレーションが満洲への旅立ちを駆り立て、満洲という「野外劇場」への夢を膨らませたことを指摘している。
        • 古本屋で発見した、未公開の、早大生の満洲国旅行の日記ノートから当時の一大学生の満洲国へのまなざしを分析している。
        • 満州国時代の観光機関を考察している。具体的にはJTB満洲支部満洲事情案内所、観光連盟協会の3機関。特に観光連盟協会が積極的に観光を国策宣伝に活用したことを主張している。

    第一節 帝国の「野外劇場」

    • 満洲国の成立と観光環境の整備
      • 旅行範囲の拡大
        • 満洲事変前まで、日本人の旅券不要の旅行範囲は、勢力範囲内の関東州と満鉄沿線を中心とする南満洲に集中し、東清(中東)鉄道によってハルピンを最遠としていたが、満州国時代に入ってから、その観光ルートの半径は徐々に広大な満洲全域に広がった。」(159頁)
      • 第三の渡満経路
        • 「渡満経路もこれまでの関釜連絡船による朝鮮経由のもと、大阪商船による大阪神戸からの大連連絡船に加えて、1933年と35年に、北陸の敦賀、新潟から日本海を横断する「日満連絡最捷路」が開通した。」(159頁)
    • 満洲への大衆欲望の喚起
      • 「〔……〕満洲への大衆欲望も、社会的に布置されているさまざまなまなざしの装置によって誘発され、これまでにない勢いで膨張していった。満洲事変後、戦争美談の人気にともなうラジオ加入数の激増や、「満蒙国運進展記念」協賛広告の出現、満洲関係の博覧会、展覧会ブームなど、一種の「満洲特需」現象が起こっている。」(159頁)
      • 「〔……〕新聞社、博覧会、鉄道省などさまざまな文化装置のコラボレーションは、満洲への旅立ちを駆り立てて、満洲という「野外劇場」への夢をさらに膨らませていったのである。」(164頁)
    • 満洲旅行団体客
      • 「1934年のあいだに、満洲を訪れた日本人団体客は合計374団体の17253人に達し、外国人団体客総数の96パーセントを占め、前年より2044人の増加である。1934年11月、満洲観光の新しい目玉である超特急列車「あじあ」号(大連・新京間)が運行を開始し、翌年3月、ソ連経営の北満鉄道(満洲里・綏芬河、新京・ハルピン間)の譲渡が達成されたのを契機に、「あじあ」号の運行域はさらにハルピンまで延長され、満洲旅行にいっそう拍車をかけた。」(164頁)
    • 満洲旅行個人客
      • 「個人客も、満鉄の鮮満案内所や、駅やデパートなどに設けられたビューローの窓口で旅行プランを相談でき、日満往復券、日満周遊券、日鮮満周遊券、東亜遊覧券など種々多様な割引連絡切符を入手できた。そのなかで、内地、満洲と中国大陸に跨る周遊ルートを自由に決められる最も便利な切符といわれた東亜遊覧券は、1940年度の売上額が154万5千円近くに達し、発売開始初年度の1931年(半年間)の売上額を127倍も上回った(『日本交通公社五十年史』、日本交通公社、1962年、162頁)。」(164-167頁)
    • 満洲旅行の終焉
      • 「〔……〕1940年を境に、来満団体客の主力勢である修学旅行団が制限され、さらに、43年ころには「戦力増強に直接関係のある旅客輸送を円滑化する」ためにそれ以外の一般旅客の渡航は抑制されるに至った(東亜交通公社満洲支社編『満支旅行年鑑 昭和19年版』、東亜交通公社満洲支社、1944年1月、39頁)。」(167頁)

    第二節 ある早大生の満洲国旅行

    • 古本屋で著者が手に入れた未公開の日記の分析
    • 切り取られた日記の謎
      • 1932年7月20日朝から21日夜にかけて太田直光氏はハルピンに滞在していたが、なぜかその日記は20日の夜の部分だけ切り取られている。著者は彼らがハルピン入りする1日前の『大連新聞』を引用しながら「ハルピンの一夜を、裸踊りやキャバレーなどの「エロ・グロ」探検に費やしていたのであろうか。」と仮説を立てている。
    • ハルピンとコンテンツツーリズム
      • ハルピンは夜の一大歓楽街が観光資源として当時の日本人の間で有名になっていた。
        • 「「狼色群のテーブルで股を載すように跳ねて魅惑の綱を投げかけて行く。無神経である。それを有神経にとるのはヤボンスキーでハダカオドリのニツツアに落とす年額10万円という。愛国機が二台製作されるのだ、憐むべし。ニツツアの女達は黄色い切符といつてキヤバレーの女達から侮蔑されてゐるのを日本の旅行者は御存知がない、黄色い切符とは二枚鑑札の札の色から出た言葉でキヤバレーはいはば町でハダカオドリは山である。山の女達は日本語サヨウナラと、カチユーシや可愛いやが得意なもので町の女のなかにはコムソモールカ(婦人共産党)が潜んで、さかんに活躍してゐる、一寸凄い話だらう、涎を流してスペシヤルルームに入り浸つて機密を盗まれたキヤバレー秘密史はさすがに国際的魔都を物語つて数限りないといふ。」(「エロとグロとの/大歓楽の夜の都/大ハルビンの新風景」『大新聞』1932年7月19日)」(174-175頁)
      • 上記のハルピンのイメージを作ったのは、奥野他見男のベストセラー『ハルピン夜話』
        • 「「ハダカオドリ」(裸踊り)は、1923年に刊行された、奥野他見男のベストセラー『ハルピン夜話』(潮文閣)で、一躍ハルビンの呼び物として有名になった。満洲事変の前年に、すでに、「内地から来る団体は、教育者であらうが役人であらうが、学生であらうが、例外なしに裸踊りを見に行くことになつてゐる様だ。満洲を知らぬ者でも、ハルピンと云へば、裸踊りのあることを知つてゐる」とうわさが立つほど、ハルビン名物になっていた。」(175頁)

    第三節 観光機関の拡大と統制

    1 JTB満洲支部

    • 『旅行満洲
      • 誕生
        • 「〔……〕1934年7月、JTB本部の機関誌『旅』の姉妹雑誌として、「満洲を広く紹介し、旅行趣味の普及発達」の目的のもとに、大連支部は機関誌『旅行満洲』を創刊した。当初は隔月に3千部を発行していたが、36年4月に月刊誌に代わり、従来の宣伝用、寄贈雑誌の域を脱出して自営の地歩を固めるために、ツーリスト倶楽部院の増加と満鉄社員購読者の獲得に力を注ぎ、5月号からは5千部を発行した。」(177-178頁)
      • 改題
        • 日中戦争勃発後、「資料を満洲のみに極限せず、広く東亜観光の指導に当り以て平和建設に協力せんがため」、38年4月号より『観光東亜』と名を改め、「広く内容を満支蒙総合の事情に求め、大陸の動向に認識を新たにし彼我融合の一助たるべきを期した」。その後発行部数は7千部に達し、内容外観共に一流雑誌としての実を挙げるようになったのだ。太平洋戦争勃発後、『観光東亜』は1943年7月号より『旅行雑誌』と改題し、44年8月号まで発行されていたことが確認できている。」(178頁)
    • 『満支旅行年鑑』
      • 「〔……〕JTB満洲支部のもうひとつの重要な刊行物は『満支旅行年鑑』である。これは「東亜共栄圏確立の拠点たる満洲国の発展と、支那事変に據る皇軍占拠後の中北支新政権に伴ひ、大陸旅行界の順調なる動きに応へ」るため、1938年12月、ついに創刊に至ったものだった。旅行関係の情報のみならず、開拓移民政策の概説から、満洲、「支那」、「蒙古」の人情習俗の紹介、さらには映画館の入場者数までここには何でも揃っている。創刊以来予想以上の好評を得て、昭和15年版以降は、「博文館」との間に翻刻発行の契約を結び、印税1割を取得するとの条件で東京でも発行されていた。発行部数は、毎版5千部から1万部で、昭和19年版まで発行されていたことが確認できている。」(179頁)
    • JTBの改称
      • 「1941年8月に、ジャパン・ツーリスト・ビューローは「社団法人東亜旅行社」に名を改め、さらに、42年12月「財団法人東亜旅行社」、翌43年12月に「財団法人東亜交通公社」と改称した。」(179頁)

    2 満洲事情案内所

    • 満洲視察者のための宣伝紹介施設
      • 満洲事変まで、満鉄と共に満洲宣伝に大きく寄与した文化団体・満蒙文化協会(26年10月より「中日文化協会」、1933年より「満洲文化協会」と改称)は、満洲国建国の翌年1月に新京に「満洲経済事情案内所」を設置した。従来の協会の地方事務所とは異なり、〔……〕「来満の日本人に満洲経済事情を紹介し企業家等に経済方面の案内」をなすことを目的に設置されたのであった。〔……〕1年後の1934年1月2日、「多数利用者ノ要求に応ズル為メ」、関東庁と駐満海軍司令部の後援のもとに、「満洲事情案内所」と改称し、同3月24日には、「満洲視察斡旋委員会」を設置し、満洲視察団斡旋事務も開始した。〔……〕建国後間もなく設立された同所は、蔵書の無料公開や案内書の刊行発売などを積極的に行い、やがて、来満視察者が踵を接して訪れるほど、満洲の宣伝紹介に重要な役割を果たすようになった」(179-180頁)
    • 満洲事情案内所と開拓団視察旅行
      • 「〔……〕1937年以降急増する開拓団視察旅行に備え、満洲事情案内所は、1940年と41年に、第一次弥栄村開拓団と牡丹江市にそれぞれ分所を設置し、開拓現地視察の旅行者の宿泊所に充てるなど、開拓地実情の紹介宣伝にも努めた。〔……〕満洲事情案内所が開拓団に分所を設置した経緯については〔……〕「〔……〕此視察者に対する事務は其重要さに於ては当さに政府の為すべきことであるが、政府直接之れを紹介するよりも却つて他の半官半民的な機関を以つてした方が宜からう又弥栄自身の手では自己宣伝に見らるる傾きがあり、されはといふてツーリスト、ビューローの手では一般に観光的の感じを受け、結局是は満洲事情案内所の仕事として取扱ふのが最も相応はしいだらう。〔……〕元来満洲事情案内所の組織は株式会社であつても単なる営利会社ではなく、弘報関係の仕事をする国策会社と称すべきものであります」という経緯であって、国策宣伝と観光案内の双方を備え持つ満手事情案内所の特殊な立場が買われていたことがわかる(「満洲事情案内所弥栄分所事業概要」、『満洲事情案内所社報』第11号、株式会社満洲事情案内所、1940年11月分、業務報告第96号)」

    3 満洲観光連盟

    • 観光委員会の設置
      • 「〔……〕1937年2月26日、全満観光事業の統制機関「観光委員会」が、国務院総務庁情報処内に設置された。国策宣伝の一部門として観光を組み入れたエボックメイキング的な出来後であった。立案者の「弘報委員会」は、満洲国建国の年に、「特に日満不可分の特質に基き国民の指導、国際政治の補強の目的を以て」、関東軍満洲国政府などから編成された宣伝機関であった。傘下に、通信、言論を統制する満洲弘報協会を置き、これら通信・放送・映画の三部門とともに、観光事業も国策的宣伝事業として位置づけ、観光委員会の設置を遂行したのである(柴野少佐(関東軍新聞班)「皇道文化の西流」、『月刊満洲』第10巻第3号、月刊満州社、1937年3月、1937年3月、132-133頁)。」(181頁)
    • 国策宣伝の見地から見る観光事業の重要性
      • 「〔……〕観光委員会の設立にあたって、関東軍新聞班の柴野少佐は「観光事業が有する国家的意義の重大性は各国共着意してゐる処である。新興満洲国は観光事業を通して国情を内外に紹介すると共に、広く諸外国の文化を吸収して発達を助成することが観光事業のとしての最大用件である。観光協会の設立は此の理想に向つて一路実践を急いでゐる」(柴野少佐(関東軍新聞班)「皇道文化の西流」、『月刊満洲』第10巻第3号、月刊満州社、1937年3月、1937年3月、132-133頁))と、国策宣伝の見地から見る観光事業の重要性を指摘している。」(181頁)
    • 満洲観光連盟の設置
      • 「観光委員会は、「満洲満洲国及関東州)に於ける観光事業諸機関を整備統制して、内外旅行者の便を図ると共に満洲国及其の四囲の情勢の宣伝、其他に依り国策の遂行に協力す」という趣旨のもとで〔……〕その業務実施機関として「満洲観光連盟」を満鉄鉄道総局旅客内に設けた。満洲観光連盟は観光委員会の指導に基づき、在満観光事業関係機関相互の連絡強調を図り観光事業の統制発達を任務とする。」(181頁)
    • 満洲観光連盟報』
      • 「〔……〕機関誌『連盟報』が発行された。当初、これは連盟傘下観光協会間の連絡情報誌であったが、のちに、『満洲観光連盟報』と改題され、さらに、1941年1月には隔月刊から月刊に変わった。同じ奉天で刊行されているJTB満洲支部の機関誌『観光東亜』と比べると、『満洲観光連盟報』は、版型は同じB5で、内容面でも、観光の情報以外に文芸欄をかなり充実させているところなどは共通している。一方、『観光東亜』より頁数がやや少なめで、観光政策に関する論文が多く掲載され、また、市販されることなく、主に各地の観光協会に配布される「非売品」であるところが特徴である。」(182頁)
    • 「『満洲国観光資源名』懸賞公募」
      • 「〔……〕皇紀2600年の記念行事の一環として、「満洲国の特異性即ち“満洲国の光”を広く内外に昂揚する」という趣旨のもと、満洲観光連盟と『満洲日日新聞』が「『満洲観光資源名』懸賞公募」を共催した。ここに言う「観光資源」には、単なる景勝地のみならず、産業・文化などの事業や、「五族」の民俗・習慣が、年中行事までもが含まれている。ただし、神社、忠霊塔、戦跡などはあらかじめ「聖地」として除外されていた。既知の観光名所より、将来性と「新しい観光観念の普及に役立つ」観光資源の発見が期待されていた。」(183頁)
    • 懸賞の結果
      • 「審査委員会は、投票数の多寡にこだわらず、「国情の宣揚になる」かどうかを眼目に、観光資源百種類を五つの等級に分けて選出した。〔……〕大栗子溝、鏡泊湖、大豊満ダム、大陸科学院、横道河子といった一等の五資源のなかで、最も人々の意表を衝いたのは、一席の大栗子溝であった。投票数がわずか4名しかなかった無名の場所だが、世界希有の鉱山資源と、長白山、鴨緑江のような景勝地を擁することで選ばれたのだという。さらに重要なポイントは、ここが抗日パルチザンの盛んに活動する地域だったことだ。「匪賊の産地」から「観光資源」へのイメージチェンジは、まさに「王道楽土」を内外に示す巧みな宣伝効果をもたらすものであった。」(183頁)
    • 満洲建国後の文化人の旅行について
      • 「〔……〕文化人の満洲旅行について、満洲事変前までは、満鉄、満蒙文化協会とJTB大連支部主催が多かったのに対して、満州国時代、とりわけ、1937年以後は、国策宣伝の見地から、満洲観光連盟や関東軍などの機関が中心となり、積極的に文化人の招待を主催するようになった。」(183頁)