【レジュメ】「満洲国新京の都市観光」

0.これまでの経緯

0-1.修論のテーマ選択

  • 帝国日本と植民地間の「人の移動」 →植民地への「観光」が果たした役割・機能

0-2.満洲国観光に関する先行研究の特徴

  • (1)観光によって満洲国に対して典型的なイメージが付与された。
    • 満洲国の周遊ルートは定型化しており、それゆえ定型的な植民地理解だった(【史資料1-1】)
    • ②「異国情緒」・「贅沢さ」・「超近代性」(【史資料1-2】)
    • ③「ユートピア都市満洲」(【史資料1-3】)
    • ④「戦跡」・「近代性」・「現地住民の後進性」・「アジア文明の保護者」【史資料1-4】」
  • (2)先行研究では満洲国の観光資源の機能・役割を主に以下の4つに分類している。
    • ①戦跡…「満洲国支配の正当化と日本国民の統合」(【史資料2-1】)
    • ②近代施設…「パノラミックな景色と近代性」(【史資料2-2】)
    • ③異国情緒…「エキゾチックとノスタルジア」(【史資料2-3-1】)、「盛り場」と満洲情緒(【史資料2-3-2】)
    • ④歓楽郷…露人女性の「セクシュアリティ」(【史資料2-4-1】)と「アンビバレンツ」(【史資料2-4-2】)
  • (3)先行研究の問題点
    • 満洲国を実際に旅行した人々が抱いた心象について、旅行記・紀行文の全体的な分析が不十分 。
    • ②観光資源の分析がステレオタイプに陥っており 、諸都市の観光資源を具体的に検討していない。
    • ③社会教育的機能を付与されていた博物館の観光資源としての研究は不十分 。
    • ④観光地として連京線・安奉線・京濱線沿線都市(旅順・大連・安東・奉天・新京・哈爾賓)が中心で、その他の地域の分析が不十分 。

0-3.リサーチクエスチョンの設定

  • 【RQ】メディア側が醸成した満洲国イメージと実際の旅行者が抱いた心象の相違点
    • →方法:①旅行記分析、②観光資源分析、③博物館分析、④新聞報道分析など

0-4.研究の意義について

  • ①学術的意義…日本の外地/植民地/傀儡国家を観光から分析し、帝国日本の対外関係史に貢献する。
  • ②社会的意義…近年、日本帝国時代の文化遺産を観光資源とする中国との融和・相互理解。

1.新京に関する先行研究

1-1.国都「新京」の観光地としての機能

  • (1)「満洲情緒」の捨象(【史資料3-1】)
  • (2)新京の「近代性」…「原野に出現した近代都市」(【史資料3-2-1】)、「驚異の絵巻物」(【史資料3-2-2】)、「未来の桃源郷」(史資料【3-2-3】)
  • (3)新京と民族協和…「児玉公園と現地住民への配慮」(【史資料3-3-1】)、「官公庁の興亜式建築様式と民族協和」(【史資料3-3-2-A・B】)

1-2.先行研究の問題点

  • (1)国都「新京」の観光について近代性を強調しすぎるあまり、ステレオタイプ的な見方になっている。
  • (2)新京という都市において、実際にどのようなものが観光資源とされていたかについて分析されていない。

2.リサーチクエスチョンの設定

  • 【RQ】国都新京は「近代性」のみが観光資源とされ、それ以外の機能は無かったのか 。
    • →新京の都市の性格と観光資源は実際にはどのようであったのか。新京独自の特性を持つものはあるか。

3.論証

3-1.新京のキャッチフレーズ

  • (1)新京は「満洲国の心臓」
    • →新京は、満洲国建国以前「長春」と呼ばれていたが、奠都後「新京」と改称された。宮廷府、国務院を始め各種官公庁が置かれ、国都建設5ヶ年計画により、計画都市が作られた。そのため政治・経済・文化の中心地となった新京は「満洲の心臓」と目され、新京を知ることは満洲国全体を知ることであると観光の宣伝文句とされた(史資料【4-1】、【4-2】)。

3-2.新京の沿革

  • (1)長春時代
    • ①3つの長春
      • 満洲国建国以前、長春という地名は3箇所あった。中国の都城であった「長春城」、ロシアの東清鉄道の附属地「寛城子」、そして日露戦争後に満鉄が建設した「長春駅」である(史資料【5】)。
    • ②開埠地(商埠地)の建設
      • →満鉄附属地建設後、清朝側による開発も行われた。長春城北門より満鉄附属地に至る広大な土地を開埠地とし、道台顔氏の計画により欧州風の市街を現出した(史資料【6】)。これにより長春は、「満鉄附属地」、「寛城子」、「長春城内」、「開埠地(商埠地)」の4つの地域から構成されるようになった。
    • ③観光資源としての「西公園」の開発
      • 長春は哈爾濱に至るまでの満鉄と東清鉄道の乗換地という側面が強かったが、独自の観光資源として西公園の開発を進めた(史資料【7-1】、【7-2】)。
  • (2)新京時代
    • ①新京の誕生と国都建設計画 → 1932年、満洲国建国により長春は新京と改称され首都となった。1933年3月から1937年12月まで国都建設計画第一期事業が行われ、計画通り完成した(史資料【8】)。

3-3.新京の観光資源

  • (1)近代性
    • ①近代建築群
      • a.関東軍関連施設(旧附属地以南の中央通)
        • ・児玉公園の南の中央通西側に関東軍司令部が建設された。関東軍司令官は在満日本大使及び関東局長官を兼ねたので、同じ建物に日本大使館があった。「お城風の厳然たる建物」、「館頭高く燦として煌く菊花御紋章の尊さ」と紹介される。また中央通を挟んで向かい側に関東局が建設された 。
      • b.ビル街(大同広場以北の大同大街)
        • ・大同広場以北の大同大街両側にはビル街が立ち並んだ。大同大街東側の大興ビル、海上ビル、東拓ビル、西側のニツケビル、康徳会館、三中井百貨店などである。
      • c.官公庁(興仁大路以南の大道大街沿いと順天大街沿い)
        • ・東西に走る興仁大路以南と交叉する大同大街及び順天大街には官公庁の建築群が立ち並んだ。大同大街沿いには経済部・専売公署・内務局・民生部が建設された。順天大街沿いには国務院、治安部、司法部、交通部が作られた。これらの官公庁は興亜式で建築されており、現代中国の長春においても観光資源となっているものもある。
  • (2)満洲事変の慰霊と戦跡
    • ①慰霊
      • a.忠霊塔…満洲事変以後の戦闘に関係して病没した軍人、警察官、満鉄社員等を祀っている。武藤元帥以下千体以上の遺骨が納めてある。「新京に来往する人々の第一に訪れて敬虔な祈りと感謝の念を捧げねばならぬところ」 。
    • ②戦跡
      • a.寛城子戦跡・南嶺戦跡…満洲事変が勃発した際に、東北軍閥と衝突した戦闘を記念する戦跡。両地域とも少なからぬ犠牲者が出た。
  • (3)異国情緒
    • ①ロシア
      • a.寛城子…旧東清鉄道の附属地である寛城子にはロシア風の建築物が残り観光資源となっていた。
    • ②満人
      • a.旧商埠地…満人街の地域。イスラーム教の寺院である清眞寺、満人最大の百貨店泰発台、新京唯一の支那芝居小屋の新民戯院、所謂ドロボウ市場である小盗児市場などが異国情緒の代表として紹介される。
      • b.旧城内…満人の商店が連なり、商品を象った看板を見て歩く事が面白い。書家が必ず絵にする関帝廟長春城の南門の跡南関がある。
      • c.新市街…大同大街の通りにある満人の土着の信仰を集める孝子墳には近代美の計画道路を造る際に撤去も検討されたが、満人の心情に配慮し、残されたという逸話があり 、世界紅卍学会は道教施設である。
  • (4)観光都市の歓楽街
    • ①旧附属地東部
      • a.日本橋周辺…新京駅南の広間から放射する東南の道路。富士町、三笠町、吉野町を斜めに突切って南広場に至る。カフェ、バー、ダンスホール、キャバレーなどでひしめいている。
      • b.「ピンカンリ」…南広場北東の大和通にある満人妓館の一つ。別名「平康里」。「ピンカンリ」(史資料【9】)。
      • c.ロシア人
        • ⅰ.ロシア人喫茶…アウエチシヤン、アララート、アルメニヤ等。ロシア少女の給仕を楽しむ。
        • ⅱ.ロシア人キャバレー…伝統のあるモデルン、インペリアル。新興のサモワール(史資料【10】)。
    • ②旧城内東部
      • a.「新天地」(別名「向春路」、「歓楽地」)…附属地以外(上記「ピンカンリ」以外)の満人妓館は「新天地」へと集められ、享楽街を形成した。

4.結論

4-1.RQ確認

  • 【RQ】国都新京は「近代性」のみが観光資源とされ、それ以外の機能は無かったのか 。
    • →新京の都市の性格と観光資源は実際にはどのようであったのか。新京独自の特性を持つものはあるか。 

4-2.結論

  • 国都新京は確かに独自の官公庁の配列とその興亜式建築に代表されるように「近代性」のイメージを押し出している。しかし実際には「近代性」以外の観光資源も持ち、案内の対象となっていた。
  • 慰霊と戦跡では、忠霊塔・寛城子戦跡・南嶺戦跡により、英霊を偲ぶことで日本の満洲支配の正当性を深めた。また、先行研究では新京における異国情緒は捨象されたとしていたが、寛城子ではロシア情緒を、商埠地や城内では満人情緒を味わうことが観光資源となっていた。そして、先行研究においては哈爾濱ならではの特徴として、歓楽街におけるロシア女性のセクシャルな消費が強調されていたが、新京でも行われていた。

4-3.今後の課題

  • (1)定型化した観光パターン
    • 今回の研究報告では、新京観光の機能は「近代性」だけではないことが明らかになった。しかし、その他の観光資源は、結局の所、戦跡・異国情緒・歓楽街と満洲観光ではよく見られるパターンである。「新京は満洲の心臓」なので、新京を観光すれば満洲全体が分かるというキャッチフレーズで観光宣伝が行われていた。それは満洲観光そのものが、実際の現地を見せようとするのではなく、既に作られたイメージとしての満洲を消費させようとしていたとも考えられ得る。米家(2014)は周遊パターンから「定型化した周遊ルートのなかで表面的かつ定型的な植民地理解を形成する機会を作り出すものであった」と結論づけているが、周遊ルート以外に観光資源のパターンからも、このことが裏付けられる。
  • (2)満洲旅行者の心象
    • 今回は、パンフレットや案内書などのメディア側からの満洲国イメージを検討したが、実際に旅行した人々  はその狙い通りの心象を抱いたのだろうか。もし抱いていれば、満洲国の観光政策は上手く行ったと実証できよう。その一方で、メディアイメージと異なる心象を抱くケースが多いならば、どうして違いが生じるかを考察することで、満洲観光が「表面的で定型的な植民地理解」に過ぎなかったことを否定できるであろう。

史資料

【1-1】

「旅行者の訪問地は日本の支配権が及ぶ鉄道網に規定され,釜山-京城平壌-安東-奉天,そして旅順-大連-奉天-撫順-長春・新京-哈爾賓という,奉天を結節点とする2大幹線に沿った 10 都市が中心であった。言い換えれば,釜山と大連を出入り口としてこの10 都市を結ぶ線が、代表的な周遊パターンを構成していたといえる。〔……〕鮮満ツーリズムのなかで近代の日本人が体験した鮮満とは,一面では,日本語環境を維持したままの鉄道による駆け足旅行であり、定型化した周遊ルートのなかで表面的かつ定型的な植民地理解を形成する機会を作り出すものであったといえる。」(米家泰作「近代日本における植民地旅行記の基礎的研究 : 鮮満旅行 記にみるツーリズム空間」京都大學文學部研究紀要、2014、53、341頁)

【1-2】

「日本人の訪問先には、競馬場やゴルフ・コース、温泉があり、旅行者は冬にはスキー場、夏は海水浴場に行くことができた。満洲のどこにいても神社に参拝することができたし、およそ230の駅や観光名所には記念スタンプが置かれていた。中国大陸への旅行熱が高まるとともに、日本人は観光を満洲の旅行施設の異国情緒や贅沢さ、そして超近代性といったものに結びつけるようになっていった。」(ルイーズ・ヤング/加藤陽子ほか訳『総動員帝国-満洲と戦時帝国主義の文化-』、岩波書店、2001年、155頁)

【1-3】

「旅行産業と、日本の文芸界の著名人たちがおりなす紀行文によって、満洲国は日本の国内消費向けにパッケージ化された。こうして文芸界の著名人も、満洲国の都市開発に携わっていた都市計画担当者や企業家たちの活動に加担することで、ユートピア都市という満洲国のイメージを普及させるのに一役買った」(ルイーズ・ヤング/加藤陽子ほか訳『総動員帝国-満洲と戦時帝国主義の文化-』、岩波書店、2001年、159頁)

【1-4】

「〔……〕そのうちもっとも大事なのは、満洲で日本が特殊権益を有するのは、日本が戦場で大きな犠牲を払ったからだという考え方だった〔……〕後進地域に近代化をもたらした日本の役割も強調されていた。首都新京(現長春)の新建築をはじめ、鞍山の製鉄所、撫順の炭鉱、吉林から30キロほど上流の松花江で建設中のダムにいたるまで、1940年に満洲を訪れた観光客の見学先には、日本人による近代化の成果がふんだんに盛り込まれていた〔……〕日本人観光客を強く引きつけた三つ目のテーマが、満洲に住む現地住民の集団が遅れた状態に置かれていること〔……〕最後の四番目のテーマは、日本人がアジア文明の保護者たらんとして、現地の歴史遺産の保護に努めているということである」(ケネス・ルオフ/木村剛久訳『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』、朝日新聞出版、2010年、207頁)

【2-1】

「〔……〕日本人の血潮で購った「戦跡としての満洲」は、満洲想像の原点を成しているだけでなく、帝国本土が持ちえない生々しい「聖地」的空間を提供してくれているのである。〔……〕戦跡記念地は、内地客に「国威の伸張」と「皇恩の無辺」を感激させ、「戦死者の同胞」としての一体感を共有させ、内外邦人の国民的結合と日本人の覚悟を一層強固にする「聖地」として「舞台化」されるようになった」(高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」、『岩波講座近代日本の文化史6』、岩波書店、2002年、230-233頁)

【2-2】

長春は、国都と定められてから、近代的な都市建設が急ピッチで進められ、「日に新しく日に進む颯爽たる姿」が「新興満洲」の象徴として宣伝されるようになった。1937年ころの「国都観光バス」ツアーの締め括りには、「国都建設局」の屋上で都市計画の概要の説明が行われ、観光客の視野を全開させるところで、満洲の心臓都市の未来図を強く実感させることになっている。新京の「国都建設局」と同様、旅順の「白玉山」、大連の「山の茶屋」(展望台)、撫順の「露天掘」(露天炭田)のようなパノラミックな景色が展開される場所は、ガイドの力の入れどころであり、在満邦人の功績を誇示するのに最適のステージである。」(高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」、『岩波講座近代日本の文化史6』、岩波書店、2002年、234頁)

【2-3-1】

「〔……〕多くの満州案内記、旅行記、見聞記が流布したのは、エキゾチックな満州であり、引揚げの記録、体験記が強調したのはノスタルジックな満州にほかならない。そこには政治、文化、言語の角逐と葛藤の場としての植民地という本質を見定めることがすっぽりと抜けているのであり、おそらくそうした視点から旧植民地都市としての大連を眺めたとしても、それは偏った、個人の内部での郷愁や好奇心の範囲を結局は逃れることができないのである。」(川村湊『異郷の昭和文学-「満州」と近代日本-』、岩波新書、1990年、97頁)

【2-3-2】

「植民都市のネイティブの盛り場は、明るい展望に適する在満邦人の業績である近代的な景観とは逆に、エキゾチックな暗さのあふれる満洲都市の裏面を「覗き見」するのに絶好の場所である。」(高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」、『岩波講座近代日本の文化史6』、岩波書店、2002年、238-240頁)

【2-4-1】

「〔……〕「外人征服」の暗喩としてのロシア人女性のセクシュアリティへの屈折した欲望が秘められている。昼の観光バスに花を添えるロシア娘ガイド、夜のキャバレーを彩るロシア人「踊り子」。ハルピンという「外人征服精神を鍛錬する唯一の道場」において、ロシア人女性の身体は、在満邦人と内地客の共謀するまなざしのもとで、「亡国の女」、「楽土」の安住者、異国情緒の体現者、歓楽郷の愛玩物など、豊穣なナショナル幻想を投射するオブジェとして、かつ「外人征服」の快感を達成させてくれる「肉体の勲章」として欲望消費されているのである。」(高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」、『岩波講座近代日本の文化史6』、岩波書店、2002年、244頁)

【2-4-2】

「歓楽街で接客するロシア人女性が、ヨーロッパへの憧憬をかきたてると同時に、ヨーロッパに対する優越感を与えてくれるアンビバレントな存在となっていった。〔……〕近代日本の旅行者にとって、哈爾浜とは,ロシアとの帝国主義的な争いと、そこでの勝利を象徴する都市であり、「夜のハルピン」は歪んだオクシデンタリズムを掻き立てる場所となった。」(米家泰作「近代日本のコロニアル・ツーリズムと哈爾浜」(『日本地理学会発表要旨集 2018s(0)』、公益社団法人 日本地理学会、2018、https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajg/2018s/0/2018s_000096/_pdf/-char/ja、2019年5月11日閲覧15時32分閲覧

【2-5】

「旅順攻囲戦当時の状況を一覧できる「戦利品陳列館」(旅順)、満洲などの考古的資料を展示する「博物館」(旅順)、満州資源のアウトラインを示す満鉄経営の「満洲資源館」(大連)、満洲国の国宝3500点を収蔵する「国立博物館」(奉天)などと、征服、発掘、開発、保存される欲望対象としての満洲の「全貌」が、絵巻物のように繰り広げられてゆく」(高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」『岩波講座近代日本の文化史6』岩波書店、2002年、234-235頁) 、(高媛『観光の政治学 : 戦前・戦後における日本人の「満洲」観光 』東京大学、2005、博士論文、199頁)

【3-1】

「大連のほかに、奉天(城内)やハルピン(傳家甸)でも、「一日の行楽の一つ」として、「満洲情緒溢れる空間」を巡ることになっていた。一方、〔……〕帝国のユートピアを視覚化しようとする未来都市・新京には、「満人」の<異界=過去>的な空間は「楽土」と逆転的な存在と見なされていたのである。」(高媛『観光の政治学 : 戦前・戦後における日本人の「満洲」観光 』東京大学、2005、博士論文、203頁)

【3-2-1】

「1934年11月から運行開始した満鉄の超特急「あじあ」号に乗り、国都「新京」の建設ぶりを実感させるというのがプログラムの定番となっている。〔……〕「原野に出現した近代都市」新京こそ、日本が満洲国開発のためにいかに貢献しているかをアピールするもっともシンボリックな場所と思われているのである。」(高媛『観光の政治学 : 戦前・戦後における日本人の「満洲」観光 』東京大学、2005、博士論文、218頁)

【3-2-2】

満洲最大の見どころとして、在満日本人による満洲開発の壮観を挙げている〔……〕「驚異の絵巻物」への「展望」空間は、観光バスのコースにきちんと組み込まれている。〔……〕1937年ころの、「国都観光バス」の締め括りには、「国都建設局」の屋上で、都市計画概要の説明が行われ、観光客の視野を全開させたところで満洲の心臓都市の未来図を強く実感させることになっていた。」(高媛『観光の政治学 : 戦前・戦後における日本人の「満洲」観光 』東京大学、2005、博士論文、198頁)

【3-2-3】

「日本の観光パンフレットは、新たな満州国の首都となった新京を、未来の桃源郷のような都市であるとして褒め称えている。現代的な都市の最先端をゆく街として喧伝された新京は、街灯整備や都市全域に及ぶ下水道システムを含め、様々な最先端のイノベーションを用いることで、日本がアジアにもたらす近代性を世界に示そうとした。」(バラク=クシュナー/井形彬訳『思想戦 大日本帝国プロパガンダ』、明石書店、2016年、98頁)

【3-3-1】

「公園の利用について、1940年5月6日(日曜日)の児玉公園(旧称西公園)を調査したところ、日本人と中国人の比は2対1であった。これは児玉公園が旧満鉄付属地にあることを考えると、中国人の利用者数はむしろ非常に多いといえる。これは上海の租界にある公園が「犬と中国人と立入るべからず」という立札が一時あったことに象徴されるように、欧米人のためのものであったことと好対照をなしている。」((越沢明『満洲国の首都計画』、ちくま学芸文庫、2002年、215頁)

【3-3-2-A】

満州国の政府官庁は、新京都市計画の二大軸線(大同大街と順天大街)に沿って配置されている。特に順天大街には宮廷、政府庁舎、法院が配置され、その建築様式は一定のものに統一されている。このような官庁建築群は都市の"顔"をつくるものである。日本人が近代以降に手がけた都市計画で、都市の中心地区が一定の建築様式にもとづいて構成され、一つの政治的表現をつくり出している事例は新京を除いては存在しない」(越沢明『満洲国の首都計画』、ちくま学芸文庫、2002年、238頁)

【3-3-2-B】

満洲国は日本の満洲進出の産物で、日本の保護国あるいは傀儡国家であったことは事実としても、建前としては五族(日、漢、満、蒙、鮮)の民族協和を謳っており、官庁建築にはそれぞれが具現化される必要があった。そのため欧米の古典様式や国際様式(いわゆるモダン建築)を採るわけにはいかず、東アジアの民族性をなんらかの形で表現する必要があった。」(越沢明『満洲国の首都計画』、ちくま学芸文庫、2002年、 248頁)

【4-1】

「新京が満洲国の心臓であることは、今更云ふまでもない。新興満洲国の政治、経済、文化あらゆる分野の動向は、新京において完全にこれを看守することが出来る。その意味において新京を知ることは、満洲国全体を知ることであるともいへる。」(「新京の観光について」、『新京の概況』、新京商工公會、1942、106頁)

【4-2】

「新京は満洲の心臓である。満洲国の政治・経済・文化あらゆる分野の動向は、新京に於て完全にこれを看取することが出来るであらう。その意味に於て新京を知ることは、満洲を知ることであるともいへる。」(『新京案内』、新京案内社、1939、97頁)

【5】

長春は一名寛城子と称す俱に長春乗の名称にして二箇所の市街ありしにあらず、然るに東清鉄道の敷設せらるるや露国は二道溝の土地二百坪を買収して爰処に停車場を開き〔寛城子〕と命名したり、日露戦後寛城子問題を解決するに及び我が南満洲鉄道会社は地を長春城寛城子駅間の中央なる頭道溝に相して百五十余万坪を買収し其の終駅を此地に進めて〔長春駅〕と命名するに及び同一名称は三箇所に通称せられて頗る奇異の感を与へたり」(『南満洲鉄道案内』南満洲鉄道株式会社、1912年10月、127頁)

【6】

「此地亦明治38年以来北京条約に依り互市場として開放せられたるものの一にして従来は城内外一般を開放地となせしが往年道台顔氏の計画に依り長春城北門より南満洲鉄道附属地に至る広大なる土地及満鉄附属地を囲繞する一定の地を画して開埠地となし開埠局を置き壮麗なる道台衙門を建築し道路を修理し発電所を設け洋風貸家を新設する等著々其歩を進め今や洋風の家屋軒を並べ坦々たる大路縦横相通じ支那に於て稀に見る欧洲風の清潔華麗なる市街を現出し昔日の街上泥濘馬腹に及びたる奇観は復た見るべくもあらず」(『南満洲鉄道旅行案内』南満洲鉄道株式会社、1917年1月、105頁)

【7-1】

「〔……〕長春駅は四望荒涼たる原頭にして旅客宿するに家なく僅かに夢を列車内に結びて東清線に乗換へたる有様なりしが、今や〔旅館〕にはヤマトホテル、名古屋館、三義ホテル、日清旅館、初音旅館等あり亦四千坪の〔遊園地〕あり 楡樹及白楊の老樹林にして夏時暑を此処に避くるもの多く又喫茶店、運動用具、花園等の設備あり〔料理店〕には八千代館、泉井ホテル、寛城ホテル、明治家、永楽館等ありて鮮肴美酒旅情を慰むるを得べし」(『南満洲鉄道案内』南満洲鉄道株式会社、1912年10月、130-131頁)

【7-2】

「附属地の公園は満鉄の経営に係り面積十萬二千坪である。此の広大な境域に樹木茂り大きな池水あり、花壇、温室、噴水、小亭、熊狼鹿猿兎小禽の檻があちこちにあつて設備は理想的である。池では夏季ボートを浮べ冬季スケートが盛に行はれる。日支露三国人が和楽逍遥し国際的公園として特色を持つ。正門のところに等身の女神像が平和を象徴して立ち又園内には大正8年7月の寛城子事件に仆れた人々を弔へる誠忠碑がある。」(『南満洲鉄道旅行案内』(南満洲鉄道株式会社、1929年12月、106頁)

【8】

「新京という云ふ街はその名の様に新しい街であります。それは以前長春として相当な街でありまして今でも其の姿は大部分その儘残つて居るのでありますが新京の新京たる所以は新市街即ち国都建設計画によつて出来た街であります。〔……〕その内第一期五ヶ年計画は大同元年に始まり康徳4年に終わつたものでありまして左程大規模なものでもありませんが、純計画的に遂行せられた点に於て世界に類例がないと申されて居りまして市街が殆ど理想的に出来ていると申してよいのであります〔……〕」
(『国都観光バス案内』、新京交通株式会社、1938 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122524 、7-9コマ)

【9】

「元は一流といはれる店は日本人を相手にしなかつたので、強いて遊ぼうと思へば支那服でも着込んで満人に案内して貰ふより手はなかつたさうであるが、今は開けたもので妓も日本語の片言ぐらゐは話すのが多い。ある時若い満語の通訳と一緒に素見に行つたら、彼氏がペラペラと妓に話しかけたトタン―アラ心臓が強いのね―とハツキリ日本語でやられ、完全に顔負けしたことがある。」(『新京案内』、新京案内社、1939、128頁)

【10】

サモワールは「-ロシアムスメの店・土曜日は古代衣装で踊ります-などと、ちょつとアトラクテイブな広告をする〔……〕玄関を入るとすぐホールで、まはりにテーブルを置いて踊つたり飲んだりするという寸法である。ニーナだかナターシヤだとか、小説でお馴染の深い名乗りをあげて、一打ほどのロシアムスメがよき鴨ござんなれと待機してゐる」(『新京案内』、新京案内社、1939、125頁)