【史料】満洲国旅行記に見る新京体験について

  • 研究目的
    • 各種旅行記を題材に、新京を観光してどのような心象を抱いたのかを分析する。
    • 旅行者は新京においてどのような旅行行動を行っていたのかを明らかにする。
    • 満洲国において新京観光を観光することがどのような機能を持っていたかを考察する。

以上の研究を行うために、まずは各種旅行記の読み込みを行った。

各種旅行記一覧

1932

山本実彦『満鮮』、改造社、1932

改造社社長】
満洲国の要人との面会。一旗揚げようとして渡満する日本人を快く思わず、歓楽街で堕する同胞に苦言を呈している。

  • 「新京は馬車の都であり、俥の都であり、そして森の都でもある」(310頁)
  • ヤマトホテル訪問
  • 新京 朝寝の街
    • 早朝、二頭立ての馬車で日本人町の中央通、敷島通、日本橋通などを散歩するが白河夜船の真っ最中。浴衣がけで欠伸しいしい街頭を歩くだらしない我々同胞の姿とブツかる。
  • 西公園
    • 満鉄運動会開催 雨の中をおおはしゃぎする人々を遠巻きに見る。
    • 「十万坪もある公園としては、釣堀、スケートなどの設備もあるにはあつたが、まだ公園としての丹精もすこしもこらされてはゐないやういもあつた。」(316-317頁)
  • 満鉄文化住宅、文化兵営の前を過ぎる。
    • 南嶺から砲撃を受けたとしたらたまったものではなかったらうと長谷部少将、大島大佐などを賛美。
  • 伊藤博文ハルビンへ行く際に一泊したという民家に立ち寄る
  • 城内
    • 「今後3年たち、5年経てば奉天、哈爾濱を凌ぐ大都市となるであらうことを思へば、今のうちにこの壊れかかつた城門や、せまくるしい城内の隅々までを見物しておくのも一興と思つた。」(318頁)
  • 支那人文化の拡散
    • 「〔……〕このごろは城内よりは商埠地、附属地の方へだんだん移り行く支那人文化を見るのではあつた。」(318頁)

1933

石倉惣吉 『満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、1933

【米沢新聞記者】
料理の比較などにおいて米沢の視点が出てくる。食事、歓楽街についての記述もあり。

  • 駅前の旭ホテルに宿泊
    • 正面のヤマトホテルの大きさに感慨
  • 自動車で移動 宇佐美公館訪問 
    • 仕事が決まらないまま新京に流れて来る日本人の多さに関する指摘
  • 支那馬車で移動 関東軍司令部 武藤信義大佐と面会 
    • 熱河についての注意を受ける
  • 新京市中見物 
    • 大和通五番地のタールーチュング(大陸春) 
      • 洋風洋室の支那料理屋で食事。南瓜の種子の味付け焙りを皿一杯に盛ったもの。特筆しているのは「焦汁黄魚」。酒は支那気分を味わえる「ホアンチュー(紹興酒)」。支那は食べかすを床へ放り投げる。
    • 新京旧城内の支那人街の見物 
      • 春先の道路の泥濘 紛然雑然たる原始的商いのオンパレード
  • 最下等の女郎屋 棟割り長屋のような支那古風の軒の低い建物 ピンカンリ
    • 三等の遊郭に比べると、1、2等の芸者屋は体裁が良い。
  • 五拍子揃った道楽
    • 支那人は「食ふ事」が道楽の一つで、日本で道楽といへば飲む買ふ打つを三拍子といふが、支那では此の三拍子に食ふ事と、それから「戯」の二つが加はつてこれを五拍子揃った道楽といふ「戯」といふのは芝居の事で、観劇亦彼等の道楽の一つになつてゐる、戦禍と乱政とに常になやまされて、生命財産の保護はおろか、日々の生活すら脅威されてゐる彼等は、今日あつて明日のないいのち、現実本能主義に傾いて、盛んに飲む、女を買ふ、博打を打つ、芝居を見る、又うまいものを出来るだけ食ふ、従つてその民風に応じて営利的料理の発達したのも当然である。」(39-40頁)
    • 「酒は日本酒でもビールでも洋酒でも望み通り出すが、支那気分の味はうには、支那の民衆が愛飲するホアンチュー(紹興酒)に限る、盃の中に氷砂糖をつまんで入れて、その上に此の酒を注いで飲む、焙じ茶のやうな焦茶色をして、ビールよりも醉ふといつた程度のものだ。」(40-41頁)
  • 最下等の女郎屋
    • 「〔……〕盛り場の小路を入つて、裏町に出ると、そこには見るべからざるものがある、即ち最下等の女郎屋だ。棟割り長屋のやうな支那古風の軒の低い建物が続いていて、路行く人の目には、雙合堂、永楽堂、花郷堂、天楽堂などの屋号の貼紙が読まれる、庇を入ると三尺通りの土間の廊下、閨房のドアは開かれて夜具を敷いた六畳間位の室が見える様にしてゐる、ドアの傍らには赤い紙に源氏名を記して貼つて垂れ、後方の髪をうなじの上に束ね、毒々しい口紅、白粉を塗り、腰から下には日本のもんぺに似てゐる雨肢のものを穿き、腰まではターコワといふ詰襟洋服に似たものを着けてゐる、上流の婦女は必ず腰にチユンツ(裙子)とかウェチユン(圍裙)と呼ぶスカートに似た袴をつけるが、元来花柳界ではいかな名妓でもチユンツを着けないことが不文律になつてゐる。」
    • 「商い最中の室のドアだけは閉ざされて、上から腰巻みたいなカーテンで覆うてゐる、日本人は夜襲を以て本領とするが、支那の男は大概日中に失敬して平気でゐる、おてんとう様の罰が当たることを知らないと見える、之等肉を鬻ぐ女の素性こそは想像外に猟奇的なもので、大抵はかつさらはれて来て売られたもの、もとはといへば水吞百姓や裏店の蒜臭いクーニヤン(姑娘)で育ち、馬賊の片割れや人泥棒に捕へられて、斯うしたピンカンリー(遊郭)に売られたものである。彼等には戸籍がない。彼等ばかりか、支那満洲人には戸籍がないのだから、これこそ何処の馬の骨だか判つたものでない、で、汚いとか醜いとかはあたりまへ、その日の生活があつて明日の理想のないドン底に落ちた彼等だ。」(43-44頁)
  • まだ第一期五ヶ年計画は途中。人口50万の新都市を建設しようとしている。
  • 新京の街路で馬車を雇い事変の戦跡を見学する。 
    • 寛城子戦跡を見て 「満蒙の新天地は、今や陰惨の暗から黎明の暁に移ったが、そこに至つたのも実に我が同胞の尊き犠牲の賜物であつて、今日のあたりに戦跡の一部を視る時、ましてカーキ色の畑の中にさびしく立つ所の墓標を見る時、誰れか、感慨無量、地下の霊魂に感謝の涙を注がぬ者はあらうか。」(51頁)

臼井亀雄『開けゆく満洲』日東書院、1933

神戸新聞記者】

  • 新京駅、大和大街、新京ヤマトホテル、
  • 新京について
    • 満洲の大都市のうちで、根本的にやり直したのはここ(※引用者註-新京)だけでせう。この日本街のこの辺から北は旧の通りですが南に広がった部分は全く新計画ですし、旧城内は殆ど変わりませんが、商埠地は新政庁の大建築を廻つて全く面目を一新しましたし、南嶺は戦跡記念の地を残すだけで、すツかり市街地に入りました。」(193頁)

川上隆正『黎明の満蒙』帝国在郷軍人大分市大道分会、1933

【軍関係者】

  • 歩兵第四連隊兵営の屋上で新京を一望する、車を徴収して南嶺戦跡を見学、執政溥儀との会見

信楽真純『柳絮』松倉友之助、1933

  • 新京の印象
    • 「新京は、砂塵と、ほろ馬車と、盗人市場の街の観がある。今、旧市街の西南方は、所謂、満洲国の国都を建設するために、もうもうたる砂塵をあげて、理想的な大都会の建設の途上にある。」(11頁)
  • 漢人満洲国人意識
    • 「王さんは、満洲国政府の実業部にゐる方で、〔……〕彼等は今、たとへ遠き先祖は漢人であつたにしても、今は、立派な、満洲国人である。との自負心にもえてゐる。これは何でもないことのようであるが、注意す可きことであると思ふ。王さんが、何か話す時「支那人が、今は、満洲国人でありますが」と云ひ替へてゐる。」(14-15頁)
  • 新京における馬車屋
    • 「現在、新京に来て馬車屋などを働いてゐる者は、近郊の百姓も相当にあるとのこと〔……〕農作物等を、兵隊たちに無理やりに奪取されたりするとの不安の念を抱いてゐるため、農作を捨てて顧みないでゐる。少しも耕作をやらない。それらの農民が、新京へ押し出して来て馬車屋をやるのだとのこと。」(15頁)

橋本孝市『満鮮への旅』、自費出版、1933

【経済人】

  • 新京で北清鉄道に乗り換え、先に哈爾濱を見てから新京に戻ってきて市内を見学。
  • 三井物産新京支店 所長代理長枝吉実氏と面会
    • 「新京に満洲国が都したのは北部にソビエツトロシヤと接近し、将来ソビエツトの対抗交渉が一層多き事を予想して建てられた所の都である。所謂軍事上の見地のみに立脚して建設する事になつたので、経済上の価値は満洲国内の大連、ハルビン奉天等に到底対比する事は出来ない。然も水便悪しく、水質も随つて不良であつて、大都市を建設すべき条件は一つも具備して居らぬと云ふ事であつた。」(31-32頁)
    • 「事変前は芸者の総数が百名足らずであつたものが、目下四百人以上居るそうである。内地人は2万人しか居らぬのに芸者400人女給200人と云ふ数字を聴かされると、景気が良いと馬鹿に内地で大騒ぎしてゐるのは、即ち之れ等の建築工事等があればこそだと断定するより外はないと云ふ長枝氏の議論は、此処に永く居られるだけに正論だと思つた。」
  • 市中見物
    • 一人自動車で南嶺戦跡へ行く。
    • 馬車で西公園の夜景を見る。
  • 溥儀執政の居所 
    • 満洲国軍人が物々しく警戒 正門前の小川にもコンクリートの橋が半分程出来上がつた所。

橋本隆吉『満蒙の旅』堀新聞書籍店、1933

【岐阜農林学校の校長】
ハルピンから公主嶺へ行くまでに新京に立ち寄る。新京を活気があると評す。新京日本橋通りの写真とキャプション

宝蔵寺久雄『海鼠は祈る:満洲旅行記』、新知社、1933

【軍関係者】

  • 建設途上の新京
    • 「〔……〕新京は二百平方粁50万の人口を目的として模範都市たらしむべく国都建設局が奮闘せる現状である。土の掘り返し、材木其他建設用材料を運搬する荷車、大工、左官、石工、運送屋が路上、市の内外に充満していゐる。宛ら関東大震災後の東京の様な感じがする。」(268頁)

渡辺房吉『満洲から朝鮮へ』、自費、1933

【学童の引率】
全国連合小学校教員会、東京日日新聞社大阪毎日新聞社共同主催の学童使節団。

  • 夜の8時半に新京に着き、旅館富士屋投ず
  • 満洲の馬車に乗りたくてたまらない著者 
    • →新京内の移動「私は此の馬車に乗つてみたい誘惑にそそられてたまらないので、或る日一行が懇談会に臨んでいる1時間を利して、町の端れまで試乗した。ピシッと軽く当てられた鞭を合図に、優々と頭に快い蹄の音を感じ乍ら、大路小路を曲折し、商埠地や城内までも普く歩き廻つた。此馬車の幾台となく行き交ひ連り合ふ様は、確に満洲市街の一風景を特色づけてゐる。」(60頁)
  • 寛城子に残る露人たちの様子
  • 学童使節団は市内を車で移動
  • 溥儀執政、鄭国務総理、謝外交総長と会見
  • 第四連隊を訪問
  • 寛城子・南嶺を見学
  • 郊外の二鳥路女学校に立ち寄る
  • 京商埠地で新京戯院を見学
    • →「〔……〕極めて貧弱で、田舎の活動小屋を稍々大きくした位に過ぎぬ」
  • 日満合同の学芸会と座談会

1934

大貫将「満洲の農業と産業組合」、日本産業組合研究会、1934

【農業関係者】

  • 新京駅、西公園、日本橋、新京銀座
  • 満洲の誇り 西公園
    • 「〔……〕満鉄自慢の西公園をブラつく。西公園は規模も相当大きく、近代的設備も整つて居る。成程金四銭の入場料を払つて日系独身官吏とタイピスト嬢とか恋を囁くにふさわしい様な場所が大分ある。ボートの浮かぶ池を距てて遥かに雪洞を見るあたり、夢の様な恍惚境に誘はれる。満目荒涼とのみ思つて居る内地の人には一寸想像の及ばない風景である。たしかに満洲の持つ誇りの一つであらう。」(86頁)
  • 内地の延長 新京銀座
    • 「新京銀座の夜は内地の延長だ。浴衣がけの日本人が大半だ、ネオンの光眼眩しく、ヂャズの音高き軒並のカフェー、鈴蘭形の電燈、夜店、どうしても満洲と思はれない。」

全国社会教育主事協会 編 『社会教育者は満鮮を斯く見る』、社会教育会、1934

【教育主事ら22名による慰問と視察の旅】

  • 都ホテル 
    • 「新興の都、活気横溢、想像以上であった」(59頁)
  • 南嶺の戦跡 
    • 「馬車を連ねて、南嶺に向ふ。戦跡を探り、戦没将士の遺霊に手向けせん為である」(95頁)
    • 「陸軍歩兵少佐倉本茂戦死者之所」
  • 満洲国衙歴訪
    • 執政府
      • 府中令 宝煕氏の挨拶→「満洲国独立に就ては日本に幾多の犠牲と援助を仰いでゐる。之に対して満洲国は満腔の感謝を捧げる。」(97頁)
    • 国務院
      • 情報所長川崎虎雄氏の談話→「外人の満洲国観は、満洲国をパペット(アヤツリ人形)と称し、保護国又は将来は朝鮮同様と見られてゐる。之れは全くの認識の不足である。満洲は厳然たる独立国である。」 「〔……〕日本国民に、日本の国防線が鴨緑江から興安嶺、黒龍江線に延長したことをハツキリと認識させて貰ひたい。」(98頁)
      • 国務総理鄭孝胥の談話→満洲国の王道政治について
    • 文教部
      • 西山総務司長の談話 → 満洲国の教育の特徴。寺子屋的教育、師範教育は王道主義、実業学校・中学校は実業実習学校にしたい。学校教育と並んで礼教教育の重視。礼教教育は社会教育が宗教教育と合体した形。孔子祭、博物館などに力を尽くす。民衆学校や映画教育の特殊の働き
    • 実業部
    • 関東軍司令部
      • 梅谷移民部長、小川拓務書記官の移民事情を聴く。

早坂義雄『我等の満鮮』北光社、1934

【高等女学校教諭の私費旅行】

  • 新京駅、西公園、附属地、執政府、国務院、南嶺戦跡
  • 西公園の描写
    • 「駅員の案内により馬車に同乗して、先づ西公園を見る。十万坪の広大なる流石は大陸的だ、殊に満洲には珍しく樹の多いのは嬉しい、池もあり河もあり水もある。グランドもあれば、ゴルフ場もある、脂粉を施した楚々たる満洲娘や闊歩するロシヤ美人等、樹の下、森の䕃に逍遥せる様は、流石は国際的公園の名に恥ぢない。」(121頁)

依田泰 『満鮮三千里』、中信毎日新聞社、1934

【小学校の校長】
中信毎日新聞に連載。

  • 在京1日目
    • 視察の予定を立てない行き当たりばったりを行動方針とし、新京1日目の視察は取りやめにして、物見遊山に興じる。
    • 大丸新館宿泊、風呂、夕飯を飽食、新京銀座の夜景、支那街情緒を一瞥、カフェー「満洲」で美しいレコードを聴く。
  • 在京2日目 自由行動
    • 寛城子戦跡を弔問
  • 在京3日目 視察
    • 首都警察庁衛生科、国務院、執政府、文教部、南嶺戦跡
    • 夜分、濱宴楼で長野県人会の招待で宴会。

四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』、自費、1934

【富山日報記者の旅行記

  • 満鉄附属地の夜景
    • 「〔……〕満洲国首都の玄関口としては立派すぎるほどの美しさと賑やかさを示し、殊に夜景の見ごとさときたら素晴らしいものである。大道せましと並ぶ夜店の街はあかるく、中空には赤、青、紫のネオンサインがまたたくのである。」(77頁)
  • 開埠地風景
    • 「この日本市街に相対してつらなる開埠地は、支那人の建設にかかる欧米風のモーダン街である。ここの荘厳さときたらまた格別で、支那趣味の洋館がズラリと並んでゐる。城壁をなくした城内は旅行者をして珍しがらせるに充分な支那風を、いまでものこしてゐる。」(77頁)
  • 京の花街
    • 「新京の花街は開埠街にある。広壮な2階、3階の妓楼が大通りに面して、ポツリポツリとある。重い扉を押して中に入ると細い廊下が続く。つきあたりの正面には大きな鏡があつて、直前から進む自分の姿をうつし出してくれるのにはチョツトてれる。大鏡の両側に二つの入口がある。一足ふむこむとモウモウたる煙がたちこめて、電燈の光りが紫色に変色させられてゐる。市場のやうだ。そして素見客がウロウロとここの広間を往つたり来たり、あるいはたたずんだりしてゐる。果物だとか、パンを売つている小さい売店もこの中に設けられているのだから日本内地では見られぬ場面である。」(78頁)
  • 長春浴地
    • 満洲式風呂を楽しむ描写。詳しい詳述あり。
  • 宇佐美顧問との会談
  • 満洲国課長級の役人に対する批判

1935

石川磐彦『鮮満視察旅行』、自費、1935

【JTB視察団参加者】
旅行経験よりも概要を述べるだけのような感じ。

  • 最もスピーディーな変化に富んだ都市の形態。
  • 驚異的な人口増加、建築熱の旺盛さ。
  • 近代的建築群 官衙
  • 西公園 風光明媚 入場料2銭 ルンペン対策
  • 計画都市と公園の配置

白須皓『我が観たる鮮満』、林風社、1935

【JTB視察団参加者】

  • 訪問場所
    • 中央ホテル、バス観光、国務院、参議府、宮内府、商埠街、南嶺戦跡、城内、新都計画地、関東軍司令部屋上、忠霊塔参拝、西公園散歩
    • 国都建設局では屋上に上り、建設中の満洲国を紹介。
      • 「国都建設局の屋上に立つて四顧すれば、広大なる平野の中に、住宅地域、工業地域、商業地域、官公用途地等が展望せられ、直前の大同広場の近傍には、威風堂々たる関東軍司令部が聳えて見へ既に新装なれる立派な財務部、外交部、司法部を始め、目下建設を急ぎつつある満洲電信電話株式会社、三菱康徳会館などの大ビルディングが指呼される。」(23頁)
  • 中央ホテル宿泊
  • バスに分乗して見物に出かける
    • 国務院、参議府、宮内府、商埠街、南嶺戦跡、城内、新都市計画地、関東軍司令部屋上で林参謀少佐の講和、忠霊塔、西公園、宿、夕食、夜10時の汽車で新京を退去。
  • 市内の交通機関は専らバスに頼る。
  • 国都建設局の屋上からの眺め 国都建設計画への期待

杉山佐七『観て来た満鮮』、日本商業教育会、1935

【教育者】
視察の他に石鹸の関税を引き下げる陳情が目的。

  • 金泰洋行を訪問。石鹸其他雑貨に就いて商況を聴問、
    • 旅行目的に附随した用件は満洲国政府に対して日本から輸出される石鹸の関税を引き下げる陳情。
  • 市内見学
    • 関東軍司令部が街の中央部に聳え立つ。
    • 満洲国中央官署が、司法部、財政部、文教部、建設部と立ち並ぶ
    • 街路も公園も建物もみな立派
    • 宮城の穢い支那人町を通って市街の端 城壁内に残されたバラック小屋
  • 南嶺戦跡訪問 倉本少佐以下将卒の墓標
  • 寛城子駅 露国全盛時代を偲ばす建物 
  • 宿の太陽ホテルには名古屋近辺の女学校の生徒が120人見学旅行の滞在中。
  • 支那料理 第一流濱宴楼で支那料理を飽食
  • 新京で行きつけのお店 天平という凍京流の天ぷら屋に通い詰める。いつも大入り満員。この店以外の古くからやっていた天ぷら屋は満洲事変の時に引上げたので天平は独占的人気。

園田銈『満鮮旅行記』、自費、1935

  • 全23頁であり、新京に関する記述はない。

電気学会『携手同行』、電気学会、1935

  • 文章はなく写真とキャプションのみである。
    • 新京寛城子無線送信所
    • 新京西公園の午後
    • 寛城子無線送信所の屋上の炎天で集合写真
    • 新京忠霊塔
    • 参拝を終えた後の記念撮影
    • 新京建設局屋上から見た大同広場と満洲電々本社
    • 新京南嶺を訪ふ
    • 国務院等々
    • 国務院玄関てに
    • 新京神社
    • 宮内府を退出す
    • 実業部大臣午餐会
    • 新京ニューモデルンの小集
    • 新京ヤマトホテル講演会
    • 新京ヤマトホテル庭園(満洲電気会社の夜会)
    • 新京西公園のスナップ

林安繁『満鮮遊記』、自費、1935

【電気会社】

  • 建設中の新京
    • 「古き歴史を有せざる為め当分は落ち着きのない都であるとご遺憾乍ら言はねばならぬ」
  • 匪賊と都市コロニー
    • 「今は附近未開発のため匪賊の出没する憂ひがあるので、日曜、休日に於ける休養の為め郊外散歩、ハイキング等の出来ないのは市民並に在留外人の為に気の毒に堪へぬ次第である。」
  • 東清鉄道譲渡による「あじあ号」の経路拡大と新京の発展への期待
  • 満洲朝廷の祖先の祠堂の建設

藤山雷太 『満鮮遊記』、千倉書房 1935

【資産家】

  • 関東軍司令部
    • 菱刈関東軍司令官を訪問
    • 関東軍司令部は「上が関東軍司令部、下が大使館で大体洋風の広麗なる建築であるが、屋根は昔の我国の城の櫓の如き形であつて満洲色をも加味したと云ふ、それが不自然でなく、極めて調和能く出来て居る。」
    • バルコニーでの展望、記念撮影
  • 国務院
    • 鄭孝胥総理訪問
  • 顧問宇佐美勝夫表敬
  • 宮内府参入
    • 宮内府大臣沈瑞麟氏に面謁
  • 皇帝拝謁
  • 国務顧問宇佐美勝夫氏と新京の公記飯店で晩餐会
  • 交通インフラの結節点
    • 満鉄、北満、鉄路総局の三線が相折衝、国際交通上の結節点。欧亜を結ぶ幹線の連絡駅、北鮮海港との交通が出来たので益々重要。
  • 市内観光
    • 訪問接客が中心で、新京神社と南嶺戦跡2箇所のみ

満洲産業建設学徒研究団 編『満洲産業建設学徒研究団報告』学徒至誠会、1935

【大学生による満洲視察】

  • 「国都新新京に観る「日本」の氾濫」というサブタイトルで、新京における日本人の入植の様子を描写している。
    • 「誰れか、これ〔※新京日本橋通りのおでん屋の描写〕を満洲国の一風景と思ふだらうか。宛然、芝か駒込あたりのおでん屋情情緒そつくりである。」(398頁)
    • 「バー香蘭の、旅芸妓崩れらしい女将と、小唄レコードと、いわしの味淋乾しをむやみと掴む女給群と、-さうした雰囲気裡、日本カフエーの安価趣味にひたれば、虚無僧の流しが来る。おにいさん買つてよ、と辻うら売りの栄養不良も来る。おおここも「日本」の氾濫だつた。一歩、そとへ出れば、プロレタリアの標本みたいな満洲人の馬車屋が、鵜の目鷹の目で客を待つ風景―そこに、僅かに、「満洲」を見出すけれど、屋内は、かくのとほり、「日本」の生活の延長だつた。」(398頁)
    • 「盛り場、吉野町の通りには、街頭に鈴らん燈をつけて、その名も「新京銀座」-夜店の行列に、軒並みのカフエー、そこを、浴衣掛けの内地婦人が団扇片手に、インチキ翡翠を値切つてゐる。門限におくれまいと日本の兵隊が颯爽と通る。ねぢ鉢巻きでバナナをたたき売ってゐる。お嬢さんがお花の稽古から、花の包みをかかへて、ゆるやかな御散歩。ものみな一切が「日本」の氾濫だ。おまけに、そこの裏通りに入れば「長唄師匠」岡安なにがしの看板や、盆石師匠の看板に、「あんま」「マッサーヂ」「女かみゆひ」-おお、なんと、日本人は自己生活を、他人の国に拡張展開することの巧妙にして、無遠慮な民族であることよ。清楚な満洲婦人が、おのぼり日本人に、ぢろりと見られるのを機恥かしげに、伏し目勝ちで夜店をあさるところ、ここは今、横浜か神戸かとの主客倒錯を与へぬものでもない。それほど「日本」は、今、新京に力強くして、根太い呼吸をつづけてゐるのだ。〔……〕かくてここ一年そこそこ以来の新京は、満洲街の城内に行かぬ限り、その風物の一切が「日本」の氾濫であり「日本」の躍動だ。底知れぬわが国威国権の伸長は、まさに、瞠目に値ひする。」(398-399頁)
  • 関東軍司令部
    • 関東軍の新庁舎は、小高い丘陵に、南面して建てられ、むろん、近代洋式ではあれど、中央正面の屋上高く、日本の城郭の二重櫓をしつらへ、左右にも、一個づつやぐらが、威容を厳然ととのへてゐる。差づめ大阪城名古屋城の一部を連想せしめ、ここにも「日本」の氾濫を象徴してゐるのだ〔……〕菊花の御紋章、燦然として四辺を払い、屋上、雲を衝いて、日章旗が風にはためけば、これこそ「日本」を延長した幾万の居留民にとり、力強くもまたたのもしい後盾であらねばならぬ。」(400頁)
  • 西公園
    • 「国都新京の誇りの一ツ―西公園は、山水双美の黄塵になやむ北満地帯では、ここらあたり公園が、生命のいこいのオアシスとして、在留民に歓迎せらるのも、当然のことだ。〔……〕公園のベンチに、恋をささやくタイピストと日系独身官吏-見ちゃゐられないと、恋の落伍者が、岡焼けば、新興の新京は、流れ込む人の数に比して住宅足らず、屋外の恋愛取引、また止むを得ずと、警察では、寛大に出た。」(400-401頁)
    • 「私は、生活を、そつくりそのまま、他に移動して、さうして、最も勇敢にこれを発揮表現する日本民族の不思議な個性を、まざまざと考へてみた。」(401-402頁)

水谷重之助『満鮮の旅』、自費、1935

社会教育主事

  • 駅前富士屋旅館に投宿、バスで移動、満洲皇帝の仮宮殿拝観、国務院瞥見して南嶺に向かう、途上、新開発展の目ざましさに驚く、国都建設局 2階バルコニーで国都建設計画の大要を承る、新京公園、新京第二小学校、新京神社、新京発

山形県教育会視察団『満鮮の旅 : 視察報告』、山形県教育会満鮮視察団、1935

尋常小学校訓導】

  • スピード旅行。ページ数も2段組みで1頁程度
  • 自動車を雇って南嶺へ。
  • 国都建設。近代的国都へ。

1936

長與善郎『滿支このごろ』、岡倉書房、1936.8

【作家】
国境視察。哈爾濱から記述が始まり、新京については記されていない。

大房暁 『鮮満紀行』、岡文社、1936

静岡県教委委託】

  • 馬丁を雇い宮内府へ
  • お粗末な宮内府
  • 実際に見た心象より第一期五ヶ年計画を紹介するだけという論調。
  • 商店街、官舎、南嶺戦跡

東海商工会議所聯合会満鮮視察団 『満鮮旅の思ひ出』、名古屋商工会議所、1936

【商工会議所】

  • 視察団に参加した人々の満洲回想録を集めたもの
  • 新京での金儲けにおける水商売奨励の提言(名古屋市市原永三氏の叙述)
    • 満洲国は国都新京を初めとして各地とも官公署の建築鉄道の敷設、道路の開設等々で何処へ行つても建設建設で夥しい活気を呈している。そしてこれ等の建設に従事してゐる内地人は、妻帯者も大抵は単身で来てゐるので独身者ばかりである。従つてカフェーや料理店は大繁盛である。だから、あまり綺麗でなくとも好いから丈夫な年頃の娘さんを十人も伴れて行つて、満洲で水商売をやれば屹度儲かる。何しろ女給クンが月に三百円のチップを稼ぐと云ふのだからタイしたものである。」(99頁)

中根環堂『鮮満見聞記』、中央仏教社、1936

曹洞宗僧侶】

  • 近代建築と日本人の誇り
    • 「〔……〕現代的鉄筋コンクリートの広壮ばる建築に日本的城郭式を調つらへた九段下の軍人会館を立派にしたやうな関東軍司令部と、純日本式の新京神社を排した時、吾国威の偉大なることを感ずると同時に、日本国民であることの誇りを感じた」(41-42頁)
  • 南嶺と寛城子の戦跡
    • 「殊に南嶺に殊勲を立てられた倉本少佐始め4基の記念碑が並列するのを観て一層その感を強くし、心から崇敬の念を深くし、皆様の犠牲に因つて吾々日本国民は今日の位置を得、枕を高くして寝ることが出来るのであると感謝の礼拝を捧げ、何となく去るに忍び難かつた。」(42頁)
  • 忠霊塔
    • 「〔……〕その荘厳なるに驚嘆し我国民の偉大なる力あるに感泣した。」(42頁)

広瀬為久 『普選より非常時まで』、自費、1936

満洲電気大会に参加】

  • 駅前ヤマトホテルに休憩、寛城子無線送電所見学、忠霊塔、関東軍司令部、大同大街、大同広場、文教部、文教部内・建設局(屋上で計画大要の説明 建設局周囲は、国都建設の中心地にして、大同広場より大道路を放射す。近代式建築物を観る)、南嶺戦跡、満洲国事業部、宮内府、国務院、関東軍司令部、午餐会の会場は「大陸春」、ヤマトホテル、満洲国皇帝陛下拝謁

藤原千代『満鮮旅行の思出』武蔵野書院、1936

日本女子大学留学生係り】

  • 南嶺戦跡、大同学院、中央銀行総裁邸、総裁書庫、民生部、国務院、文教部、

本多辰次郎『北支満鮮旅行記 第2輯』日満仏教協会本部、1936

【宗教史研究者】

  • 外交部、日本領事館、大使館、大谷派本願寺別院、鄭孝胥総理邸、羅監察院長邸、文教部、本願寺ロシアパンを食す、長春県立女子中学校、新京特別市第三小学校、「純然たる漢人の生活」(漢人の資産家の家の見学、富裕層)、露西亜レストラン、ロシアダンス。市街散策
  • ロシア人消費
    • 「〔……〕白系露人経営のレストランに至り露西亜料理を食し、露西亜ダンスを見た。猶隣席に男三人女四人を伴い来りし大官を見たが、これは写真で見覚えのある、吉林省長煕洽氏の如く思われ、問うて見ると夫れに相違ないとの事で有つた。」

満支視察団記編輯部『大阪より満鮮北支へ』、満支視察団記編輯部、1936

国会図書館内部でのみ閲覧可能

1937

有田芳太郎『鮮満北支の旅』、自費、1937

国立国会図書館でのみ閲覧可能

石川敬介『満洲をのぞく』カニヤ書店、1937

  • 訪問場所
    • 新京駅、南嶺戦跡、西公園、忠霊塔、関東軍司令部、憲兵隊、歓楽郷ダイヤ街、新京銀座吉野町、寛城子、寛城子戦跡、新京放送局
  • 近代性
    • 「先づ駅頭の感じは、唯馬車が多い以外には余り異郷に来たとは思へないやうな近代都市」(17頁)
  • 歓楽街と日本人都市
    • 「〔……〕新京の歓楽境ダイヤ街〔……〕ここにはカフエー、喫茶店、バー、料理屋、ダンスホール等々軒を並べ、ネオンサインがあくどくお客を呼んでゐます。日本人の行く所何処でもカフエーだけは作られるやうです。兎に角この街は日本化されたと云ふより、全く日本の街になつてゐます。ここから少し離れて新京銀座と呼ばれる吉野町の繁華街があります。」(19-20頁)
  • 新京内の交通インフラ
    • 「広い街路には全く電車は通さず、大衆の交通機関としてはバスが用ひられるとの事です。しかし今日では馬車が一番多く、又最も安価な乗物として広く利用されてゐます。しかも彼等馬車仲間には決してお客争奪の競争もなく、到つてのんびりと所謂大陸的にやつてゐます。大体4人迄10銭か20銭で何処へでも行ける程度です。」(21頁)

岐阜県社会教育課『鮮満視察輯録』共栄印刷所 1937

岐阜県青年連合】

  • 交通手段は人力車
    • 「駅より人力車にて溢るる如き活気のある豪華な町を通り〔……〕」(78頁)
  • 誠忠碑(沖・横川氏を祀る)、忠霊塔、南嶺、新京神社、宮内府(仮宮殿)、関東軍司令部、
  • 戦跡ナショナリズム
    • 忠霊塔→「最近建設せられたる忠霊塔は雲をつくばかりに高く日本精神を他国の地に輝かして居る」
    • 南嶺→「激戦苦闘の結果多数の犠牲者を出しただけに、方々の草原の中に暮れ行く秋と共に淋しく又護国の神となられし幾多の英霊を弔わずには居られなかった。」
    • 関東軍司令部→「満洲の夕日をあびて金色に耀く菊花の御紋章を排した時思はず眼頭が熱くなつて、皇国日本の有り難さ尊さが痛切に感じられ、聖代に生を享くる我等の幸福を沁みじみ感謝したのである。」

中島正国『鮮満雑記』、自費、1937

  • 新京神社に額づく
    • 「新京神社は新京中央通りにある。大正15年11月3日、大正天皇御大典記念会事業として御鎮祭申上げ、次いで昭和4年5月、今上天皇御大典記念事業として全社殿を改築し、昭和7年12月14日長春神社の社号を新京神社と改称申上げた。御祭神は天照大神大国主明治天皇の御三座である。その御社運は何れも皇室の大典、国家の大事に関係して飛躍的の発展を遂げつつある。これは内地でも同様であるが殊に朝鮮満洲に於て顕著である事を感じた。」(37-38頁)
  • 関東軍司令部訪問(40-41頁)
    • 「西公園の緑を距てて巍々として聳ゆる大建築、本館を中心に前後・左右・中央に羽翼にの陣を張り、三層の上に天守の櫓めいた単層若くは重層の高楼があつて堂々たる偉容で、仰ぎ見れば菊花御紋章が燦として輝き尊厳の感にうたれる」
    • 「屋上に昇つて市街を展望するに東西南北際涯を知らず、無数の大建築が或は成り或は営まれつつあつてその大観は想像以上で、これが人力で行われつつあることかと思ふばかりであつた。」
  • 市中見物
    • 国務院、宮内府、清眞寺、関帝廟、南嶺戦跡、観光廟造営地、交通部、財政部、学政部、世界紅卍学会、皇宮予定地
    • 予定地の東西に萬壽大街、前面に順天広場、順天大街が其処より起こり安民広場に連り、安民広場は安民大街に通じる。
    • 西萬壽街を廻り、国務総理官邸、外交部、電々会社(丸ビル等よりはるかに大)、文教部、国都建設局、中央銀行、康徳会館、忠霊塔
    • 忠霊塔
      • 忠霊塔の遺骨について→「遺骨は内地家庭に送りたるものの一部の分骨を、一柱毎に高さ5寸に三寸角の木箱に納め、正面に所属部隊官位氏名、行年、右側に死亡年月日、場所、死因、右側に本籍地遺骨発送稀先及其の宛名が明記してあるとのことであつた」(46頁)
    • 新京の孔子廟はどこにあるか分からず視察できず
    • 新京で夕食
      • 支那料理を食し粥が美味、食後は露人の喫茶店、夜店見物、その後23時新京発列車で北上。

福徳生命保険 『鮮満事情 : 文部省推選派遣教育家の見たる 昭和12年版』福徳生命保険 1937

【女性教育者の満洲旅行】
書籍の末尾に「雑感、雑録」という項目で満洲国の訪問先の雑感が記されている

  • 関東軍司令官
    • 「新興満洲国の中心新京の1画に16の御紋章高く、燦然と輝き、我が国威を世界に示すものの如く、巍然と立てる庁舎、これぞ関東軍司令部である。」
  • 新京の小学校 特別区立自疆両級小学校
    • 児童の綴り方の掲示、「文字の国」だけあって巧みな漢詩漢文、日満親善に力。

吉岡栄亮『鮮満紀行』、自費、1937

【鮮満視察旅行団に参加した回想録】

  • 都ホテル宿泊
  • 自動車で移動、新京神社へ
  • 寛城子戦跡へ
  • 南嶺戦跡
    • 「忠勇護国ノ鬼トナレル英霊ヲ祀レル高碑ノ前二佇立シテ涕涙滂沱タルヲ近セサルモノアリ」(5頁)
  • 国都建設局
  • 市中観察(詳述なし)

1938

岩崎晴子『満鮮に旅して』、竹柏会 1938

奉天に勤務する夫を訪ねて満洲へ旅行する】

  • 大和ホテル
  • 満鉄会社社宅訪問
  • 自動車で市中見物→官庁諸会社の建物の立派さ、整然と広い道路、高低を利用した土地利用(低地を公園として灌木を植える。)
  • ロシア料理
  • 新京飛行場、航空機で哈爾濱へ

大橋克『満鮮北支紀行』、小寺印刷所 1938

三重県農会】

  • 大新ホテル
  • 官公衙歴訪:拓政司で移民関係事項の聴取、国務院で弘報処作製の「農業満洲」の映画を観覧。
  • 新京神社
  • 南嶺戦跡
  • 拓殖委員会、拓政司、満拓公社三者合同の招待宴で
  • 関東軍司令部
  • 満拓公社、委員会

志村勲『満洲燕旅記』自費出版、1938

  • 新京駅、満蒙ホテル、各中央機関官公署、在満銀行会社地帯、中央大路、大厦高楼、関東軍司令部
  • 関東軍司令部を見て誇りを感じる描写
    • 「宛ら守護神の如くある我関東軍司令部の、アノ燦たる菊花御紋章を仰ぎ見る時、如何に日本人たる事の幸福と誇を感じる事か、私は暫し雨の路上を門前に胸を張つて立つたのであつた。」(89頁)
  • 新京の歓楽街について
    • 満洲では一流芸者屋を「書館」二流を「班」女郎屋を「堂」と称すのだと云ふ、班、堂は先づ意味が通ずるように思ふが、書館に至つてはその語源を想像するに苦しむ。新京には事変後、ダイヤ街とかに一大不夜城を現出し、日鮮満色とりどりの堂やら班が櫛比してゐる」(98頁)

田中智学『渡満紀行』獅子王文庫、1938

【宗教家】

  • 新京観光
    • 「〔……〕新京の観光といふことになツた、劈頭第一に新京神社に参拝し、忠霊塔にもお詣りをすまして、市中の見物もやりたいはやりたいけれども、兎に角満洲事変について生々しい物語を事実に結晶した戦跡ともいふべき南嶺に赴いた。〔……〕目の辺り其の兵舎や何かの現状を見て、生生しき戦死者の墓を展するに及んで、其の感慨は一層深いものがあツた」(159-160頁)
  • 軍司令部
    • 「特に目につくのは軍司令部の建物で、これは城郭に擬したやうな建物で如何にも新京の全体を睥睨して巍然として建ツて居る姿は、非常に要領を得たものだと思ツた」(163頁)

マルサン織物工業組合『北支満鮮視察報告日記』、マルサン織物工業組合 1938

新京に関する記述なし

中島真雄『双月旅日記』、自費、1938

満洲日報】

  • 大和ホテル
  • 市街地通観、「天平」にて晩食。「天平」が新京で有名な食道楽。
  • 南嶺戦跡、宮廷、官衙、会社、公園、市街、道路等の建設を見る。→国務院その他の諸官衙が頗る人目を引く。
  • 満洲柘植公社

新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、1938

キリスト教信者/盲聾とあるが全く見えず聴こえないわけではない。ぼんやりと見えているし、聴こえている】

  • 新京駅 → 駅舎の壮大さ、駅前の様子(馬車あり、人力車あり、自動車あり、それぞれ金切声を挙げて客を呼ぶ)
  • 朝日通の新京日日新聞
  • 日本総領事館
  • 中央大通の大新京日報社
  • 新京聖教会
  • ヤマトホテル
    • 「満鉄直属のホテル丈あつて其の構えは堂々たるものだ。欧米の先進国のそれと比較して何等の遜色はない。外観の美は内部の整然たる設備と相俟つて、欧米人に対するプラウドである」(121頁)
  • 満鉄白菊倶楽部(講演を行う)
  • 忠霊塔
  • 寛城子
    • 戦跡
    • ロシア人街(「市街は純ロシア式で、風俗も新京が満洲風であるのとは非常な相違である。布で頭から頬冠りしたロシア婦人や栄養不良らしい老人なども多く見受け、民族衰退国家滅亡の悲壮な状態をまざまざと見せ付けられた」(129頁))
    • ロシア人経営のレストランにて食事
  • 南嶺へ移動(興安大路、大同大街、官庁街の諸官衙、)
  • 南嶺戦跡
    • 当時の戦況を偲んで感激する様子。
  • 大同大街
    • 官庁を建設するために盛んにおこなわれている工事の様子。
  • 安民広場
    • 「大同広場と同じく中央政府機関及び市政機関の中心で既に完成した官庁、煉瓦造りあり、鉄骨コンクリートのモーダン式あり、威風堂々街路を圧している。」
  • 順天広場
    • 「宮内府の前苑にある。自動車が走るにつれ、建築物はパノラマの如く転々と映つて来る。巨大な首都警察庁、国都建設局、中央銀行満洲電々会社(電信電話会社)、関東局何れ努らぬ(ママ)壮観豪華版である。」
  • 関東軍司令部
    • 「上部は古代の天守閣の優美を備え、下部は洋風の現代的な堅牢なものである。思ふに東西文化の特有性を採つた事であらう。而かも堂々たる威容は他を圧せずんば止まぬ一種の権威である」(142-143頁)
  • 商埠地
    • 人馬の来往が盛ん、各国各人種の人々が交わる、ビジネスセンターとしては米国ロサンゼルスよりも殷賑、日本総領事館の所在地、国都の商業中心地としてまだまだ膨張する期待性。
  • 附属地
    • 時の満鉄総裁後藤新平により210万6900坪を買収。満鉄は運輸連絡の完備と都市設計に努めて今日の新京の基礎を作る。帝政ロシアの寛城子がロシア式であるのに対して、長春支那風に日本風を加味している。
  • 城内
    • 城壁、城門は未だ残されその区画の中に現地住民が居住している。時代の推移とともに城壁・城門は取除かれつつある。
    • 支那人に対する植民地的目線・日本人の使命感・白人植民地支配への対抗
      • 「〔……〕長煙管に悠然として歩行する多数の彼等を見た。大国民と言はうか。文明から生存競争場裡から捨てられた漢民族とでも言はんか?興奮発奮の意気が無い。矢張り日本人が背後から押し出して遣らねばならぬ。そこに日本の使命がある。彼等を指導し啓発し東洋の発展と文化と民族の独立の気性を涵養教授して行かねばならぬ。白皙人種の東漸する横暴の自衛の為にも……。」
  • 青年会館で講演

日本旅行会『鮮満北支の旅 : 皇軍慰問・戦跡巡礼』、日本旅行会 1938

基本的に訪問先を羅列的に書き並べているだけである。

  • 新京駅
  • 駅前の国際観光局で一休み、自動車に分乗して見物
  • 後藤総裁の発起で建てたヤマトホテル、日本橋通、金泰洋行、記念公会堂、伊藤公が哈爾濱に行く時の宴会場であった東公園、創業館、立法院、国都防衛司令部、満洲国監獄、宮内府、満洲中央銀行、紙の大房を軒端に下げた飲食店、赤煉瓦の満人中学校、軽便鉄道、新京総合運動場、白亜の新京気象台、野球場、赤屋根の中央警察学校、司法部法学校、南嶺、新京大同学院、陸軍官舎、建国大学、新京大陸科学院、中央庁、新京満洲国産業部、最高法院、安民広場、周囲1周半皇居予定地、交通部、司法部、国務院、順天公園、治安部、参議府、諸大臣官邸、高さ45米の給水塔、西北高等学校、総務庁官邸、総理大臣官邸、外務局、新京中央幹線道路、忠霊塔、満洲電々会社、満洲中央銀行、大同広場、市公署、市立病院、首都警察庁、東拓会社、三井支店、康徳公館、満洲映画協会関東軍及び駐満司令部、満洲興行銀行、関東局、西公園(模範的公園で寛城子戦没者の忠魂碑が立つ)、新京神社、新京ホテル、自由行動

平野亮平『満支旅行日記』、自費、1938

【産業視察】

  • 都ホテル
    • ヤマトホテルに入りたかったが満員で入れず。国都ホテルへ入る。夕飯は料亭「桃園」へ行き饗応を受ける。料理、酒、女と内地に変わる所がない。満洲へ来たという気持ちが更になかった。
  • 視察
    • 新京神社、新京デパート、満洲興業銀行、東亜煙草会社、満洲採金会社、満洲専売公社、満洲国経済部、国務院、満洲電業会社、満洲国産業部を歴訪。
      • 「新京市街の立派になつた事は、誠に驚嘆に値する、道路下水の整頓せる、公園運動場、官衙学校等の建築物の整備せる、今日では近代都市としての形は、最早十分に完備した。」(13-14頁)
      • 「若し夫れ壮麗なる国務院、日本風の屋根に、洋風の建築を交え、威風堂々たる関東軍庁舎の如きは、特に旅人の目を驚かすに足る」(13-14頁)
  • 吉林街道をドライブ
    • 満洲国皇帝が初めて観兵式挙行された時の御野立所がある丘へ。小高い丘があって記念碑が立っている。
  • 新京中銀倶楽部
    • 富田興業銀行総裁の催にかかる午餐会。
  • 総務庁訪問
  • 西公園の散歩

松本佐太郎『鮮満北支たび日記 : 附・鮮・満・北支の陶業調査報告』、自費、1938

【陶業】
陶器の写真がメインだが、行程表があり、各地の訪問先が分かるが、都市に関する記述はない。

村松益造『黄塵紀行』南塘文庫、1938

【満鉄支援により満洲で行われた全国図書館大会の主催者として旅行に参加】

  • 新京1回目
    • 新京開発の様子
      • 「クレーンの響!電気ハンマーの轟き!全市を震はす建築の喚響は、近代都市への勇壮なる行進曲である」(82頁)
    • 大同通りの豪壮な康徳会館内康徳製粉会社に立ち寄る
    • 夜は「弥生」で日本料理の饗応
    • 日満軍人会館で全国図書館大会
    • 昼は新京大和ホテル「中央飯店」
  • 新京2回目
    • 哈爾濱より戻り、再び新京に立ち寄る。
    • 南嶺戦跡

森田福市『満鮮視察記』、自費、1938

  • 新京ホテル
    • 相当部屋に対して不満があったのか、新京ホテルを散々に扱き下ろす叙述をし、大和ホテルを使用しなくては駄目だと読者に忠告している。
  • 関東軍司令部
    • 「駅前の北広場から一直線に大同広場へ通じてゐる街路樹茂る中央通りの大道路を辷るが如く南走する事僅にして、右方、緑の並木越しに中央に天守閣を、左右の端に出丸をあしらつた三層建ての堂々たる大建築が見える。一寸風変りで名古屋の市庁舎を彷彿とさせる建物だ〔……〕仰ぎ見る菊花御紋章の輝きに感激〔……〕さすが東洋平和確保の大号令を全満に向つて発する関東軍の総本家だけあつて、庁舎の広壮雄大なること盤石の如き観がある。」(163頁)
  • 関東局
    • 「中央通の大道路を挟んで関東軍司令部の東隣にそびゆる白亜の大庁舎関東局〔……〕」
  • 中銀倶楽部
  • 満洲料理店「宴濱楼」
  • 夜の新京情緒を見学
    • 新京銀座、日本橋通、三笠町の夜店、東一条二条のネオン街、事変後に出来た新検番がある不夜城のダイヤ街、三笠町の表通り、裏通り一帯は日鮮満の賑やかな花街、東三条から南東四條へかけて新京一流の書館が見受けられる
    • 「我々には珍しい構の家と楚々たる満洲美人の群を一通り見学して、マアチョウにゆられながら旅館に帰つた。」(168頁)
  • 大馬路の鹿鳴春
    • 「鹿鳴春は新京一流の満洲料理店で、見たところ店の構や設備も今迄になく立派で品位があり、サービスも仲々行届いて居り、出された満洲料理はその粋を極め、此れに加へて料理の甘さは此度びの旅行中で口にしたなかで特別のものだつた。」
  • 観光バス
    • 「市街巡覧、新京神社参拝、自動車内からその建設ぶりを視察、関東軍司令官官舎、満洲電信電話会社、国都建設局を始め、満洲色を発揮した特異な建築様式を見せて市街各所にその堂々たる容姿を誇つて居る満洲国政府の各新築庁舎を見て廻つた」(169-170頁)
  • 南嶺戦跡
  • 特急あじあで哈爾濱へ
    • 「特急「あじあ」此の名は一行の人々が日頃一種のあこがれを持ち、乗車を楽しんで居たのであつたが、かうして落ち付いてみると、その乗心地は又格別である」(172-173頁)

山形県教育会視察団『満鮮の旅 昭和13年度』、山形県教育会視察団 1938

  • 満洲に流れて来た朝鮮人
    • 満洲に来てゐる鮮人には頭のいいのが有り、日支関係はどう、日満関係は如何と、ちやんと読んでゐて、満拓あたりから農耕資金を貸りても「国策会社で何も返金を迫らなくともいいでせう」とか何とか云つて中々返済しない。自分がしないばかりか附近の満人にも不払をけしかける。それで居て補助や救済は強く是を受けようとする。事変前に「我々は日本人だ。お前たちの云ひなりになつて居れるか」等と村の満人の名望家の村長の云ふ事などに中々従はうとしない。今度は満人側から民族協和じや無いかと云はれても中々村の事に協力しない。見栄坊で、もつと貯蓄も出来るのに徒に衣食のため浪費する。きたない小さな家に住んで居ても外出には随分立派な衣服を身に着ける。奥地の者はわざわざ都会に出て来て浪費する。人の恩を受けても感謝の心が薄く御礼の手紙を書く事は中々しない。大体満洲に来てゐる半島人日韓合併後来た者が多く、又沿海州に渡りロシアの政治に堪え得ずして渡満した者が多いから必然かうなるので有らうと云ふ。」(59頁)
  • 孔子塚」
    • 「大同外民生部の隣、紅萬字会本部前のペーブされた道の一側に、小高い十何坪ばかりの丘が有つて一本の大木を背にした祠らしいものがある。沢山の扁額が納められて居るし、参詣する人も相当有り、香煙縷々で無しに、こちらの風習で有らう線香が燃え上つてゐる。新京の表玄関からの此の大同街のしかもペーブされた大道のただ中に此の古風な祠の有るには誰も奇異の感がする。」(60頁)

長與善郎『少年滿洲讀本』、日本文化協會 : 新潮社、1938.5

【架空の親子の満洲旅行を題材とした案内記】

  • 政治の都市新京
    • 「それにしても新京の特色が哈爾濱や大連とちがつて、矢張政治、軍事の中心といふ所にあることは、駅前広場に降り立つてみた第一印象ですぐ判る。関東軍の印のついた自動車や、何々部といふ役所の自動車が忙しげに走つてゐる。」

保田與重郎『蒙疆』、生活社 1938.12

  • 蒙疆が中心で新京に関する記述は見られない

1939

東文雄『朝鮮・満洲支那大陸視察旅行案内』東学社、1939

  • 満鉄における支那人・満人の利用
    • 「〔……〕財布に余裕があるなら満洲支那の旅行では出来れば一等、少くとも二等以上で旅行すべきである。三等ではどうもなんとなく感じが悪く狭苦しい感じである。近頃では三等は満洲人や支那人の満員であるから尚ほ更二等か一等にすべきである」(32頁)
  • 隆盛の途中であるという気分
    • 「新京は満洲国の新しい首都なので実に活気が横溢している。殊に最近は政府の仕事が漸く積極的になつたため、官庁とか大会社とか、大きな建物がドシドシ出来つつあるし、民家の方も盛んに増設されて行く。〔……〕旅行者にとつては、新京は満洲の首都で今隆盛の途中にあるといふ気分を経験すればよいのである」(36-37頁)
  • 市街見物
    • 「市街を見物するとすれば、駅附近を中心にして、新京神社、忠霊塔、寛城子戦跡、宮廷府、大馬路、南嶺戦跡、南湖、安民広場、興安大路、三中井百貨店、新発路、八島通といふ順で廻つてくれば一通りの新京の街を見たことになる。団体で行けば貸切の大型バスに乗れば割安だし、定期遊覧バスも出てゐる。遊覧バスの方は料金は大人一人一円五十銭、小人75銭である。娯楽機関の方では日本映画館もあるし、支那の芝居もあるし、また遊興の巷も所々にあつて一通りは揃つてゐて事欠くやうなことはない。」(38頁)
  • 日本的な新京
    • 「万事が日本的で、新京へくると大陸的といふよりも日本的であるため異国的な香りはそれほど濃厚ではないのである。」(38頁)

岡山県鮮満北支視察団『鮮満北支視察概要』、岡山県教育会 1939

  • 新京駅
    • 「都市計画の偉大さ、、街路舗装の完備、建設途上の大建築に目を驚かす。実に生気溌剌としている」(18頁)
  • 国務院
    • 院内地下映画室で東辺道鉱山開拓実況を映画によって紹介される、院内見学では正面階段壁の岡田三郎助氏筆にかかる「五族協和」の油絵に目を引かれる。中央席間の「日満議定書調印」の絵と共に日満親善の気持ち。屋上より新市街を展望。
  • 治安部
  • 観光バス
    • バスガールの明朗な声
    • 「新市街予定地、官公衙通の偉大さ、近代建築の粋を集め其の上巾60米乃至100米の舗装道路の坦々たるものが遥か地平線の彼方に幾條も或は放射状に或は方形に引かれてゐるのは新興国都にふさはしい。過ぐる満洲事変の戦跡南嶺や寛城子を訪ね満洲特有の強い蒙古風に吹かれ乍ら激戦の模様をつぶさに聞き、眼のあたり幾多英霊の墓標を排しては何時しか一行の両眼に熱いものが光ってゐた。」(14頁)
  • 民生部
  • 再度、国務院へ 張総理と面会
  • 新民協和会並びに国防会館階上に於ける満洲拓殖公社、日満拓殖委員会、満洲開拓総局三者連合主催の満洲移民に関する座談会に出席

杉村大造『満支へ気ままの旅へ』箱館経済協会、1939

  • 観光地としての新京
    • 「〔……〕其昔長春時代より現在に至るまで都市としての変遷に伴ひ、大和民族の血涙が濺がれてゐる観光地であることを忘れてはならぬ。〔……〕満洲創国の裏面には寛城子の苦闘と貴き犠牲あり、将又南陽の激戦・肉弾攻略あり、孰れも、歩を現状に停むとき涙なくして、参拝せざるものはない」(45頁)
  • 建築物と新京の観光資源
    • 「〔……〕国都新京の雄々しき建設と其の建築物の広大にして郷土色あり文化色ある建物のどれもが、観光の対象とならぬものもない」(45頁)
  • 新京交通株式会社による観光バス運転サービス
    • 「車は新京駅前観光協会前を発して、新京神社、忠霊塔、寛城子戦跡記念碑、関東軍司令部、大日本大使館、大同広場、建国広場、児玉公園、協和会前、国務院、南陽戦跡記念碑合同法衙、大陸科学院日本橋通商店街、満人商店街等を一巡して所要三時間を過ごしたのである」(46頁)
  • 観光協会の活動
    • 「特に我の注目を引きたるは、観光協会の活動である、日本国際協会の建物二階を利用し、且新京交通株式会社の観光バスと相提携し、観光バス巡覧券の発売及案内を業務とする外、満蒙研究案内に専門家を聘して能く此等の旅行者のよき説明相手となつてゐる殊に新京土産品陳列を兼ねて販売の業務をも掌つて旅行者に百パーセントの満足を供すると共に土産品の向上発展に資せるは、誠に理想的といはねばならぬ、尤も観光協会は、特に新京駅前の地の利を得たるものありと雖も、其の着眼点は確に観光そのものの真意義をキャツチし、能く利用したものといふべきである。近事観光施設に対して、非常時局の折柄兎角放任になり勝なるも、こは観光そのものを今尚昔ながらの遊山気分とのみ誤認せるの結果であつて、真の観光こそ国の姿の顕はしである、その郷土の姿の顕はしである、見えざる産業たる所以も此意義に外ならぬのである。」(46頁)

津田亥子生『満支行雑記』自費出版、1939

  • 訪問場所
    • 満蒙ホテル、遊覧バス、天ぷらを食う、長春浴地、ヤマトホテルで夕食
  • 遊覧バスで新京を一巡した心象
    • 「第満洲国の国都としての都市計画に基づく此特別市は、其偉大さに全く驚異の目を瞠る外はない。」(11頁)

1940

全国中等学校地理歴史科教員協議会『全国中等学校地理歴史教員第十三回協議会及満洲旅行報告書』、全国中等学校地理歴史教員協議会 1940

第一 第13回全国中等学校地理歴史教員協議会の経過-(三)第13回全国中等学校地歴教員協議会-(2)新京滞在中の概要記録
  • 新京中学校寄宿舎
  • バス十台に分乗して市内見学
    • 関東軍司令部、関東局庁舎、新京神社参拝、中央通駅前、旧附属地商埠地の商店街
    • 宮廷府前興運門内にて拝礼、矢沢校長の説明、大馬路長春街、大同広場(直系300米のお大広場、市公署、首都警察庁、電々会社中央銀行等、市民生活に直接する政治経済機関あり)、国都建設局の屋上より局員粕屋氏の説明
    • 南嶺戦跡記念碑、大同学院、南嶺広場、建設中の建国廟、建国大学
    • 国務院関係の官衙街(国務院、高等法院、交通部、司法部、治安部等の荘重にして明朗なる新東洋式建築)、新京中学校寄宿舎
  • 午後自由見学
第二 満洲視察旅行記-(二)B班旅行記
  • 新京駅
  • バスで新京宿舎へ移動
    • 満洲国の国都の壮観を感嘆しつつ眺めた。規則正しく舗装された坦々たる街路、見事な並木、比較的高き地に統制ある高壮な建築物等、今迄満洲風の古びた汚い感じの田舎町を見て来た眼には、総てが極めて清新に、雄大に近代的に見えたのである。」(300頁)
  • 徒歩で忠霊塔広場、宮城遥拝
  • バスで市内見学
    • 忠霊塔広場出発、中央通、新京神社(可なり落ち着きのある社殿)、駅前、日本橋通、旧商埠地(汚らしい感じ)、興運路の突き当りが宮廷府、(石柱と鉄の扉の正門は立派だが、それに続く石の塀の赤塗は一寸奇妙な感じである。殊に附近に貧しげな家があり、豚が遊んでゐるのは尚更だ)
    • バスで興運路を戻り、純満人街の大馬路に出る、賑やか。長春大街は建物が少ない、大同広場の手前の般若寺(近代的寺院建築)、大同広場は現在新京の中心地、中央銀行満洲電信電話会社、首都警察庁、府公署等の壮麗な建築物が集ってゐる。市公署の屋上に上つて、完成に近づきつつある国都の大観を恣にしつつ、国都建設局の職員の話を聞く。
    • 話の終了後、更にバスで大同街を行き、内務部・民生部・経済部等の建築を眺めつつ、至誠大路に曲る。動植物園、総合運動場を経て南嶺戦跡へ。
    • 饅頭事変戦跡記念碑を拝礼、バスガールの上手な説明、倉本少佐、土田勉上等兵等43名の戦没将兵の墓標に、深い哀悼の意を表して、バスに乗る。
    • 建国廟、建国大学・小講堂、寄宿舎
    • 産業部、合同法衙、交通部、司法部、治安部、国務院等の中央政府官衙を見乍ら、順天大街を行き、宮廷建設地前を経て、興亜街を真直ぐに寄宿舎に戻る。

大陸視察旅行団 『大陸視察旅行所感集 昭和14年』、大陸視察旅行団 1940

【東京女子高等師範 学生旅行】

  • 木村都「満鮮に旅して」
    • 「新装の新京にこそ、最も新満洲国の面目が見られるわけと、意気込んで都入りをした。車を連ねて私達は新京の街を走つた。その時の感激こそ、私は北鮮に於けるそれと並べて、今度の旅行の最大の収穫に数へたい。ここには、私達が夢にのみ見てゐた近代科学都市が実現されてゐる。而も、之は日本人が作つたのだ〔……〕兎に角、新京のすばらしさは実際に行つた者でなければわからに。ここに来るまで、多少私の心に巣喰っていた疑惑も、うすぐらい議論も、一切吹き飛ばして私は晴れ晴れとした明るさで背が伸びる様な思だつた。本当に日本の国は驚くべき国だ〔……〕自分も新京を作った中の一人である様な錯覚に一寸おち入つた程であつた。」(17頁)
  • 中村スマほか「紀行」
    • 旭ホテルに対して酷評
      • 「駅のすぐ左手の旭ホテルに着く、不潔な騒々しい旅館だ。女中さん達の下品さも不愉快だ。」
    • 観光バスで市内見学
      • 新京駅前から南に一直線に走る大道大街、新京神社、軍司令部、忠霊塔、宮廷府、南嶺、宮廷御造営地
  • 宮本静子「街頭所見」
    • 「一体に満洲のどの都市に行つてもの事であるが、日満それぞれの街が余りにも確然と隔たつてゐる事である。未だ建設日も浅く、城郭文化の余波は仕方がないのかも知れぬがせめてメインストリート位は、日満文化の生粋を集めた、日本人も満人も気持ちよく歩ける街でありたい」(207頁)
  • 高橋津留子「新京城内を見学して」
    • 城内の印象
      • 「城内は不潔と喧騒の全くの満洲調である。〔……〕城内でバスを下りると、先づ第一に、ほこりつぽい軒並みと原色で塗りつぶされたどぎつい看板が目に飛びこんで来る。先の方を赤く塗つた紙の房をたらしたのは飯店、瓢箪形のブリキをぶらさげたのは油屋、果物屋は食慾をそそるよりも寧ろグロテスクな感じをさへ與へるやうな林檎の看板を掲げてゐる。時々ぎよつとさせられるのは歯科医の看板だつた。又方々に瓜や食物の露天店が出てゐる。あたりに種を散らしながら大人も子供も路上に跨つては無心に瓜を食べてゐる。」(213頁)
    • 大蒜のかおり
      • 「すれ合ふ人毎から、思はず顔をそむけたくなる程の大蒜の香が発散して来るのだつた。丁度、朝鮮から満洲にかかつた列車中で、満人のいり込んでゐる箱に渡つた時にかがされた息苦しくなる程の大蒜の香を思い出す。」(213-214頁)
    • 纏足について
      • 「〔……〕纏足を見た時には、思はずぎよつとして立ちすくんだ程だつた。牡丹江、ハルビンを過ぎて新京にはいつてからは纏足を見ても割に冷静に観察されるやうになつた。纏足は暫次(ママ)消滅してゐるとは云へ、まだまだうら若い女の纏足を見た時には、彼等の纏足に対する美的観念が、まだ覚めずにゐるのか知らと感ぜずには居られなかつた。」(214頁)
    • 人種的偏見
      • 「来る人も会ふ人も周囲は満洲人の姿。大蒜の香をはきかけられては人種的嫌悪が私の気持ちをぐつと、しめつけて自ら自身の心の殻の中に満人に対する蟠り、恐怖を抱かせるのだつた。それは言葉の全然通じないといふ事も確かにその原因をなしてゐると思はれるのだが。路傍で瓜をかぢつてゐる男、屋台屋で白い粉をすすつてゐる老爺、彼等は凡て鈍重な眼、無表情な顔、それに細目に開けてゐる口が一層顔にしまりのなさを與へてゐるのだつた」(214頁)

久米正雄『白蘭の歌』、新潮社、1940年

  • 概要
  • 測量技術を持ち支那語を操る叩き上げ系満鉄社員が、4人のヒロイン(故郷の田舎の封建的な日本娘、教育を受け自立した雄弁な日本女性、満洲育ちの満鉄の令嬢、主人公の支那語教師役の満人娘)と複雑な恋愛劇を繰り広げる話。
    • 危篤の父親の見舞いに故郷である群馬の赤城山麓に帰郷した際、父親の莫大な借金を引き継ぎ、父親に仕えていた女性を娶ることになる。父親は間もなく死ぬが、この娘はなんと主人公の弟と恋仲であったのである。父親の借金を満鉄の退職金で返済した主人公は、弟と共に拓士となり、娘を交えた満洲での開拓生活の中で、どちらと結ばれるかを決めることとなる。
    • そのため主人公は満鉄の令嬢及び満人娘との女性関係を清算。開拓地に入り、開墾や灌漑設備の設計に汗を流す。主人公は弟の心情を知ったり、自己の態度を娼婦から糾弾されたりする中で、日本娘を弟に託す決意をする。主人公自身は自立した日本人女性と結婚しようとするが、そのヒロインは既に別の拓士と婚約してしまっていた。
    • そんな折り、満鉄から新路線建設をするので再び力を貸して欲しいと再雇用され、測量に赴く。日本娘を弟に譲渡してきたわけだが、なんとその日本娘は測量地まで追いかけて来た。これまでただ従順なだけであった日本娘が男の為に立ち上がったのである。心を通わす主人公と日本娘。
    • しかし主人公は匪賊との交渉の特使となった。そしてその匪賊の首領は、主人公が関係を清算した満人娘だったのである。満人娘は主人公との悲恋により赤化したのだった。だが主人公の口から、満人娘は実は日本人だったことが明かされる。満人娘はその事実を知ると驚愕、主人公のために匪賊を裏切ったため、戦闘に発展する。この戦いで主人公は満人娘と共に命を落としてしまうのであった。
    • 主人公と満人娘の活躍により匪賊掃討は完了し、鉄道は開通。その汽車から花輪が投げられるが、慰霊に訪れたのは、主人公の弟や日本娘、雄弁な日本女性であった。
  • 新京について
    • 新京は殆ど出てこない。会話の台詞の中で出てくる程度である。
      • 「「でも、新京へは、鳥渡位は寄るんでせう?」「ええ。」貴司が代つて答へた。「乗換を利用して、鳥渡の間はね。勿論その間には、伸び行く新満洲の国都の概観や、満数事変の記念戦跡、南嶺位は見物出来ますよ。」「康吉さん、徳男さんはね、」規矩子が口を出した。「新京のモンテカルロとかつて云ふ、ダンス・ホールにお目当てがお目的がおありになるのよ。大連で聞いて来たんですけれどね。其処に元フロリダで、……」」(261頁)

春山行夫満洲風物誌』、生活社、1940年初版、1941年再版

満洲を観光しながら風物を記す旅行記

  • 観光バス
    • 観光バスは駅前から出る。駅前の一郭をしめるのがヤマトホテル。駅前の直線の大通りが旧附属地までは中央通り、旧附属地を離れると大同大街と名称が変わる。先方8キロ先の建国大学まで一直線に伸びている。関東局、日本大使館を過ぎて、忠霊塔に着き参拝。寛城子に向かう。鉄道のガード下を越えると、三不管。日本、支那、ロシアの行政区域の境界で支配を受けなかった特異の場所。満人の店や市街がある。その道路の突き当りが昔のロシアの寛城子駅。附近にはロシア風建築が見える。寛城子戦跡で当時の戦闘状況の説明を聞く。ロシア人街にはバスは入らず引き返す。三不管の手前には密集した細民区。ガードをくぐって旧附属地に戻り、満人街を通過。満人百貨店や路傍の小盗児市場、バスは宮内府の前庭にとまる。仮宮殿を拝観。清眞寺拝観、回教徒の寺、宗教建築及び宗教彫刻。清眞寺の前には満人の食料品店の看板があり、遠近法で観兵式のように後方へ並ぶ一群の看板。長春大街を通り、都心の大同広場へ。中央銀行を始め、諸官衙が並ぶ。「新京のエトワール」。至聖大路を通り動物園のサルを遠望、中央観象台、大同学院、南嶺戦跡。「護国の英霊よ安かれ、と私はここでも、時代のこのやうな急激な動きに東洋の大きなドラマを思はずにはゐられなかつた。一つの国の建設が、奇跡によつて行はれたのでないといふことをこれらの英霊の名によつて、深く意識せずにはゐられない。」
  • 夜の新京
    • 夜になると国都建設局には静寂が訪れ、旧附属地域の日本人街が賑やかな遊歩の中心地となる。日本橋通り。金泰百貨店、映画館、満人街のある建物(おそらく新天地)、ロシア人レストランでロシア人女とダンス。
  • 要人訪問
    • 関東軍、国務院、満映本社、満拓本社、協和会、弘報協会
  • 三不管見
    • 満人の商店街の様子を見学
  • ビューロー
    • 「駅前のビューローで『熱河』といふ観光パンフレット(15銭)を買ふ。ツーリスト・ビューローの刊行物である。これは東京を発つ前に田村泰次郎氏からここで買ふやうに勧められたものだ。ビューローの二階に新京観光協会案内所があり、観光バスの切符を売ってゐる。私はそこへ上つて、昨日バスの中で貰つた地図を失くしたからといつて、新しいのを貰ふ。東方国民文庫満洲民族誌』(秋葉隆著)が並べてあつたのでそれを買ふ。事務所の前は土産物売場で、ルーブル紙幣がガラス張りの額へ入れて陳列してある。」(114頁)
  • 満洲事情案内所
    • 満洲事情案内所は、駅前近くのビルデイングの二階にある。普通のビルデイングのオフイスとおなじで、入り口のドアをあけて階段を上ると、事務所がある。事務所のドアをあけると、高さ5尺幅4尺位の硝子戸棚があり、そのかにここからでてゐる刊行物の新刊が並んでゐる。奥の方には書棚が並んでゐて、満洲関係の文献が納まつてゐるらしい。老年の先客が一人ゐて熱心に刊行物を買集めてゐる。」(114頁)
  • 邦人が満洲国を知るための手引き
    • 「我々が現在満洲国を知る殆んど唯一の手引きとなつてゐるものには、上掲の東亜経済調査局刊の『満洲読本』(昭和9年版)や、長與善郎氏著『少年満洲読本』(昭和13年)や、最近出版された徳富蘇峰氏著『満洲建国読本』位しか流布してゐない。」(128頁)

村野貞朗編『大陸みやげ話』自費出版、1940

  • 東亜建設
    • 官衙、公署、学校、銀行等の堂々たる大建築物が、皆それぞれ特有のデザインを以て、恰も新都市を飾る偉大なる置物のやうに、平野のあちこちに散在し異彩を放つてゐる。東亜建設の華々しい力強さがほんとに顕はれてゐるやうである。」(18頁)

1941

今村太平『満洲印象記』、第一文芸社、1941年9月

【映画評論家】

  • 新京初日
    • 新京駅、満鉄支社弘報所、ヤマトホテルのグリルで昼食、新京神社参拝、関東軍司令部、宣撫工作における移動映画班の重要性を聴く、国務院弘報処、大同大街、ニッケビル、満洲映画協会支那料理屋「松竹梅」
  • 新京2日目
    • 寛城子スタジオへ、寛城子のロシア人住宅街、寛城子スタジオはかつての寛城子駅を利用している、新スタジオ、城内「新市場」、支那芝居小屋、バスで移動、中銀ホテル、ロシア料理屋でロシア人ダンサーを見る、ロシア人女性の悲哀
    • ロシア人への目線
      • 「帝国ホテルを真似たやうな中銀クラブに入る。暖炉では火があかあかと燃えてゐた。ここは新京の上流人の社交場らしい。給仕はロシヤの少女である。〔……〕ロシヤの給仕女の尖つた鼻先が寒さで赤らんでゐた。頬には血の気がなかつた。いかにも哀れな気がした。」(129-130頁)

長與善郎『満洲の見学』、(少年文化叢書)新潮社, 1941.12

ほぼ同著者の『少年満洲読本』と同じである、

伊藤整満洲の朝』、育成弘道閣、1941年

いきなり松花江から始まる。東満・北満中心の旅行記。新京に関する記述はない。

石橋湛山『満鮮産業の印象』、 東洋経済新報社 1941

新京に立ち寄ってはいるが、ほぼ描写はない。吉林の公園と鵜飼を見に行っている。

磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部 1941

【国語教師】

  • 11時50分、新京着。駅構内の食堂で昼食。遊覧バスで市中を概観。バスは13時半新京駅を出発後、新京神社、忠霊塔、寛城子戦跡、宮内府、南嶺戦跡、国務院などを概観して新京駅に戻る。「新京は満洲へ行くほどの者は誰もが遊ぶところである」。ツーリストビューローで宿屋を斡旋してもらう。夕食後、女中から「新京銀座」へ行くことをすすめられる。12時半頃宿へ戻る。翌朝哈爾賓へ。

松井正明『鮮満一巡 : 附・転業対策卑見』、千葉東亜経済研究会 1941

【楽器店】

  • 新京着後、バスで3時間余り見学。コロンビアの新京支店に頼んで宿を取る。興安大路にある宿の四畳半部屋、食事は内地同様お決まりのサシミ、煮肴、味噌汁
  • 翌日、同じ興安大路の坂井忠ビルにビクター、コロンビヤ、満洲蓄音機会社の三出張所が部屋を隣して並ぶ。楽器は少ないが、レコードは多く、客で賑わう。満蓄の専務星野秀敏氏の話「放送事業、映画事業など、同様満洲の文化を担う重要な任務を持つた仕事である、将来満人生活の向上に伴れて伸びゆく大きな将来を持つ事業だと自信たつぷりであつた」

松井秀子『大陸奉仕行』興亜保育協会、1941

  • 新京駅→新京神社→西本願寺別院幼稚園(宿舎)
  • 夜の自由行動
    • 「7時から8時半迄自由行動が許された。明日からいよいよ訓練所に入所するので、私達の生命の糧とも云ふべき甘い物を買込んで置かうと、皆と連れ立つて外出した。宿舎のすぐ前が、鈴蘭燈などのある繁華街で、アスフアルトの道路の両側には、大阪と少しも変わらない明治の喫茶店や、下駄屋、布団屋、洋服屋果物屋、そしてぼんぼりを軒につるし紺の暖簾をかけた粋な小料理屋やおすし屋もあつて、まるで心斎橋筋を歩いゐる様だつた。街を行くのも日本人が遥かに多く、その故か、道路も清潔だ。協和服の人、洋装の女、浴衣がけの人、女学生、子供等が右往左往してゐて、此処は満洲と云ふよりは、日本の町の感じだ。」

鷲尾よし子『和平来々 : 満支紀行』、牧書房 1941

秋田県人の女性作家】

満洲旅行」
  • 9月10日
    • 朝8時国都新京着。太陽ホテルで一休み、荒木四郎氏来訪、満拓訪問、ヤマトホテルでフランス料理の昼食、市中見物、満人街、養狐場、日本料理屋「一平」
  • 9月11日
    • 豆タクで市内見物、南嶺戦跡、忠霊塔、中央飯店
  • 9月12日
    • 治安部、宮内府、国務院で張景恵総理と会見、大同広場の国都建設局の高級技正武藤吉治氏を訪問。自動車で市内公園、広場、南嶺の建国大学、南新京、寛城子。寛城子のロシア人街では非常によく気が植えられ白系の品の良いロシア人が伏し目がちに歩く。新京見物後は18時20分のアジアで哈爾濱へ。

1942

大佛次郎『氷の花』、六與商会出版部、1942年3月

【作家】

  • 新京で見る日本の力の影響
    • 「〔……〕一望千里ともいひたい曠野の上に茸が生えたやうによきよきと忽然と出現した首府新京特別市の姿〔……〕立派に舗装し整然と街路樹を植えた現代的な道路が、目のとどく限り遠くまで伸び、巨大な石造建築が連なつてゐる。〔……〕これが10年に足りぬ月日の間に、秋晴れの日の満鉄の汽車の中から折々見かける蜃気楼のやうに、それまでほとんど何もなかつた地上に出現した大都会なのである。これだけは、リツトン卿に見て貰ひたかつたと思ふのは僕だけではないだらう。何やかやといつても、日本の力といふものを一番手早く如実に知る方法は、年を更へては満洲国を見ることのやうである。」(46頁)
  • 新京と植林
    • 「〔……〕新京を歩いてゐて感じることは、樹が美しく繁つて来たなといふことである。この事実をいひ換へて見れば、人の心が落着くといふことだつた。僕が訪れた季節の秋晴れの光の中で、明るい木の幹や枝の間から、いろいろの現代的設備のスタデイアムに、若い人たちが薄着して運動に身をやつしてゐる姿を眺めるのは、未来をいよいよ希望深く感じさせるものだつた。」(47-48頁)

石山賢吉 『紀行満洲・台湾・海南島』、ダイヤモンド社 1942

経済誌ダイヤモンド社の社長】

  • 美しい新京市街
    • 「眼に入る新京の街は、眼の覚めるほど美しい。其処は、東京で云へば、丸の内のやうな処である。両側は、官衙と銀行ばかりである。それであつて、非常な美観を呈してゐる。丸の内は、寸尺を争ふて、ゴツゴツした建物が、すき間なく建てられて居る殺風景な街だ。余裕がない。覚醒した眼で見れば、個人主義経済のあさましさを、如実に示したやうな街である。新京は、新都市である。その建設は、理想的に運ばれたと予て聞いて居た。その理想振りが、街を一目見ると、直ぐ分かるのだ。丸の内のやうに建物と建物の連鎖でない。建物があると、樹木があり、樹木の次は建物といふ風にサンドウヰツチ式の構成になつて居る。「新京の土地は、凹凸だ。それを、都市構成に利用した。凹地を公園となし、凸地に建物を建てた」と森田君が説明する。成程、さうだ。建物と建物の間は只の樹木ではない。公園式に配列してあるのだ。〔……〕私達は、丁度、春の酣な五月中旬に、新京へ行つたのだ。街路に並ぶ揚柳が、芽を吹いて、杏の花が咲き、公園四季の新都市を飾つて居た。其処を、自動車が、アスフアルトの舗装道路を、心地よく、疾走するのである。」(73-74頁)

井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』、明石書房、1942

【大陸文芸懇話会の文化人】

  • 新京吉野町ロシア人キャバレー
    • 「〔……〕イムペリアルとかいふ露西亜人のキヤバレへ行く。バンドは頻りと、「紀元は二千六百年……」といふ日本の歌を奏でてゐる。キヤバレの露西亜娘は、まるで教養も教育もなく、そして無類のお人よし振りを発揮する。いかにも19世紀の露西亜人らしくて哀れな気がする。生まれは大抵上海かハルピンか、たまに向うで生れたと云ふ年増がゐても、ウラルかポーランドと云つた具合で、モスクワのことなどは何も知らない。」(239-240頁)

山形県教育会視察団『満鮮2600里』、昭和十七年山形県教育会視察団、1942

【教育視察団】

  • 国都新京の発展と脅威
    • 「建国十年 長春から新京へ。躍進の国都には若さが漲つてゐる。幅員54米の大同街や、45米の興安大路も、内地では一寸想像されぬが、雄大な都市計画の思い切つた発展振りは気持ち良い。政治、経済、金融、治安、文化、教育等あらゆる分野の中心地で、440平方粁の土地に住居、商業、工業、特殊の地域制をたてた堂々たる建設は将に世界の脅威である。」(73頁)
  • 戦跡の効果~南嶺戦跡~
    • 「肉弾又肉弾敵兵四千を壊滅敗走せしめた偉勲、満洲建国の尊い戦跡である。当時の兵営、激戦のあとは、星霜10年徒に雑草茂り、白樺の樹のかげに標石さびしく、静かに瞑目皇軍勇士戦没の跡にたてば、そぞろに感謝と哀悼と怨憤の感に咽ばざるを得ない。」(78頁)

1943

阪井政夫『自動車人ノ見タ満洲』日満自動車界社、1943

  • 訪問場所
    • 新京駅、忠霊塔、新京神社、吉野町附近の料亭、南嶺戦跡
  • 新京の官庁建築群
    • 「〔……〕道路に配する中央各機関の建築様式は独自の満洲色を発揮せしむべく苦心されてゐる。国務院を始め大小種々の諸官庁の建築を見てゐると、建築見本の様にポツン、ポツンと並んでゐる。何れも三十台(ママ)の少壮建築技術家の設計した「夢」を盛つた建てものの様に感じた。」(97頁)
  • 新京としないのインフラについて
    • 当初の計画では、路面電車を走らせず、地下鉄を設置しようとしていたが、大東亜戦争によりダメになったので、結局は路面電車を敷き、電気バスを導入した。

白鳥省吾『詩と随筆の旅:満支戦線』、地平社、1943年

文人

  • 躍進する新京
    • 「新京特別市として長春の蝉脱せる躍進途上の新興都市こそ輝かしいものである。整然として作られたる満洲国政府の建物、金の御紋章の燦然たる関東軍司令部、文武両面からの満洲の心臓部は、これから仕事をする人にとつて血湧き肉躍る感がある。」
  • 新京市内の交通インフラ
    • 「新京の名物は馬車と洋車(人力車)である、牧畜国の満洲人はよく馬を御す。かくて何千頭或ひは万を越ゆるかと思はれる馬が、二頭曳きとなつて一キロ十銭内外で客を乗せ、市中を洋車と共に織るごとく走るのである。洋車も同じ位の値段である。新京は、馬の蹄の音に明けると言つてもよい。」
  • 満洲情緒
    • 満洲の情緒を知るには、いはゆる満人街を漫歩するがよい。新民戯院といふので芝居を見た。ハヤシは間断なく鐘を鳴らし胡弓を引いて、騒々しい限りのものであつた。劇は御家騒動のもので、殿様が御殿を留守にして遊び廻つてゐるうちに敵が難題を持ち込み家老が苦労をする。結局、敵の大将と家老が戦ふことになるのだが、その立廻りはなかなか面白く、情痴の場面なども歌劇風な科白が綿々たるものがあつた。」

藤本実也『満支印象記』、七丈書院 1943

【養蚕研究者】

  • 日本人が作り上げた都市、新京
    • 満洲大陸に於ける都市の中で大連と哈爾濱は露西亜人の造り上げたもので、あの様な大計画であつたが我が邦で継承して更に完備はしたものの、完全に最初から邦人の計画に成つた都市では新京が最も著しいものである。」(227頁)
  • 観光バスに乗れなかった・・・
    • 「若し時間の許すものあらばアウトラインだけでも一瞥しようかと駅前の新京交通株式会社の国都建設バス案内所へ駆け付けて見たが、乗車券は毎々早く売り切れとても予約するにはそれ相応の時間を要するから遺憾ながらこれを見合わせた。」(228頁)

鮎沢幸雄『満洲旅日記』、自費、1943

満洲開拓推進隊視察旅行記

  • 新京風景
    • 「駅頭に群集するマーチヨ、市街に美しい鈴の音を残して、夕陽の中に鬣を振る馬、豊かな異国情緒に皆挙つて乗つて市内見物にでかける。美しく整備された発展性を、将来に約束されたこの新しい国家の主都(ママ)は秋も既に深く、楡の葉が鋪道の石畳に散つて風に弄ばれてゐる。興安路や寛平路附近の整然たる住宅街、ペーチカの煙りは大陸の茜色の空に流れ、楊柳の木立の下姑娘の楚々たる散歩姿、美しい満洲服の下に秘めた燃ゆる血汐はやがて大満洲国を育み培つてゆく力の源泉でもあらうか。店頭の物資も驚く程豊富で、更に馬車を駆つて大同大街をつつ切つて、至聖大路附近に至ると法院、農政部、交通部等の国家枢要の官衙が適当の間を隔てて聳え電車道を横断して、丘の彼方に延びる大同大路の末は高粱の畑の中に迄延び切つてゐる。吉野町辺の賑はしさ、どうして之が内地を遠く離れた大陸のまつただ中と思ふことが出来やうか。」(7-8頁)

1944

田畑修一郎『ぼくの満洲旅行記』、児童図書出版社、1944年

【児童書】祖父母への手紙で満洲を紹介するという形式】

  • 大同大街
    • 「〔……〕大同大街のはじまるあたり、少し坂になつたところに立つて、南の方を眺めました。幅が60米もあるといふ広い広い通りは、両端が歩道で、真ん中は遊歩道、その間では車道になつて、並木が四列に植ゑられて、はるか目のとどくかぎり、いかにもゆつたりと美しく、まつすぐにのびてゐます。この大同大街の両側にはせせこましくない、大きな建物がいくつもいくつも立つてゐます。ほんたうに、胸がすつとしました。」(97-98頁)
  • 満洲における忠霊塔の役割
    • 「ぼくたちは先づ児玉公園に入つて、そこから忠霊塔の前に出ました。明るい明るい大空に、いかにもどつしりとした形のいい塔がたつてゐます。高さは35米もあるさうです。塔の下の方には大きいのから順に屋根が三層ついて、ずつと上には、まだ二層の屋根がついてゐます。それは、奉天の北陵で見たやうな、黄色い瓦で、いかにも満洲らしい感じがします。ここには、前関東軍司令官武藤信義元帥をはじめ、寛城子や南嶺の激戦で戦死された英霊をおまつりしてあります。旅順の表忠塔や納骨祠、奉天の忠霊塔でもさうでしたが、ここでもこのどつしりとした忠霊塔の前に立つと、なんだか身体がじんじんするやうに思ひました。」(98-99頁)
    • 「そのとき俊をじさんはいひました。「これから先き、乙彦君もやがて見るだらうが、都会に忠霊塔が立つてゐるだけでなく、満洲中どんな小さい駅へとまつても、日本人のお墓が立つてゐない所はない、といつてもよいくらゐだ。それを見ると、今のやうにりつぱな満洲国ができるまでには、日本人の血がどんなに流され、どんなにたくさんの骨をこのひろい満洲に埋めてゐるか、といふことが身にしみてわかるだらう。」」(99-100頁)
  • 大同広場
    • 「大同広場は、わけても、美しいところです。ぐるりには、どつしりとした大きな建物が立つてゐました。あちらの建物には、屋根のついた塔がついてゐます。こちらの建物にも、またちがつた形の塔がついてゐます。これはみんな、日本の建築する人々が新しい国都をつくるために、苦心をして一生けんめいに建てた物ださうです。ほんたうに、みんなが力をあはせたので、こんなにすばらしい都ができ上つたのです。広場には、いろんな植込や芝生や、並木が、美しい模様をつくつてゐます。ひろいひろい空と、透きとほるやうな明るい空気、その中で木々の緑は建物としつくり似合つて、何ともいへぬ、こころよい気持がします。そして、かういふこころよい気持は、大同大街をどこまで歩いて行つてもつづきました。ほんたうに、新京といふところは、いろいろな形をした美しい建物のある都会だ、と思ひました。」(100-102頁)

寺本五郎『大陸をのぞく』紀元社、1944

  • 「国都たるべき新京の大都市計画の相貌を睹るに、最初より雄大なる構想の下に、道路を先づ完成し、区画を立て、国都に相応しい建築を以て打ち建てられ、所々に緑地帯、公園を挟み都市美を書き出して、内地の丸ビル街をも凌駕する所も随所に窺はれ、個々の建物としても、満洲中央銀行関東軍司令庁、国務院、満洲電話電信株式会社等は我国の議事堂、丸ビルにも劣らざるものがあり、然かも日本式、支那式、洋式を巧みに織り交ぜて一種云ふべからざる荘重と森厳さを保つてゐる。我国の二倍にも相当する満洲国の国都としては、自然広大なる建物を要求する。一面また満人、露人、中国人を対照して考ふる時は、好むと好まざるとに拘らず、高層なる建物を勢ひ建てざるを得ない。我々は此の十年の短期間に斯くまで立派なる新京を建設した日本の偉大なる国力と、絶大なる精神力に対し、満腔の感謝と深甚なる敬意とを表する。」(118-119頁)